ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 160号

こんばんは。今日もお越し頂きありがとうございます。
今シーズン最後のひとつぶ便りは、いつもより1枚分多い、A4・3枚という分量でございます。書いてたらどう考えても2枚じゃ収まらなくなってきて、じゃあ3枚目途中まで、とかでいいやと思って書いてたら難なく3枚目も埋まりました。

誰かに伝えたい、と思うことは、結局は自分自身に伝えたいことなのかなと思います。ひとつぶ便りは、誰よりもまず、僕に対してのメッセージ。今、いちばん大切だと思うことを書いています。誰かに届けばいいなと思う。その前に、自分に届けばいいなと思う。書いていて発見することもあるし、確認できることがたくさんあります。

今年も、色々と楽しく書かせてもらいました。来年もよろしくお願いします。みなさん良いお年をお迎えください!いつもありがとうございます!では、今年最後のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 160号(2013年12月27日便)

 いつもありがとうございます。いよいよ今年最後のお届けです。1月は一週目はお休みで、2週目からはお届けします。今シーズンも最後までよろしくお願いします!
 寒さはどんどん増してきています。今夜も寒い!星がきれい!先日マイナス10℃の日がありました。やっぱり寒いなぁ。ここからもそう遠くない野辺山というところでは、マイナス20℃を観測したそうで、その日の全国一番の寒さだったらしい・・・。僕らの住んでいるあたりも、北海道より寒いなんてことはざらにあります。ちょっとここ寒すぎるなと思うこともあります(笑)。薪ストーブが本当にありがたいです。去年の今頃はこの時期、引っ越したばかりでまだ煙突の工事ができておらず、この家に置いてあった小さい灯油ストーブでがんばっていましたが、寒い日は目の前に張り付いていても全然暖かくないという状態でした。寒かったなぁ。今年もいよいよマイナス10℃の日々が始まりました。
寒さなど吹き飛んでしまうほどこの町に魅力を感じ、ここで農業がしたい!ここで暮らしたい!と、この町に住み着いている人たちを何人も知っていますが、僕らは成り行きでこの地で農業を始めたので、この土地に対する愛着はもともと少ない方だと思います。それぞれの土地に、それぞれの長所や短所があるものと思います。今、僕にとってこの地のいちばんの魅力は何かと考えると、空気とか水とか景色がきれいとかそういうものの前に、「人」というのがきます。色々な思いを素直に伝え合える仲間がいるというのは何より心強いです。しかも同年代が多いというのもとてもありがたい。ありがとう。

今週の野菜セット
 先週に引き続きお餅便です!今年も4月からコツコツ育てて収穫したひとつぶ農園のもち米を、薪の火で蒸して機械でついて、お届けします。精米はほんのちょっとだけしかしていないので、茶色いです。玄米に近いので、栄養価が高いとかいうのもあると思いますが、何より味が良いと思います。ご賞味くださいませ。
 花豆の甘煮も入ります。花豆は、それなりに標高のある高原でしかできないものだそうで、佐久穂町の中でも標高の低い場所(といっても700m台)ではやや育てにくいらしいです。どこでも育つものではないので、ある程度高級なものとして市場では扱われるようですが、このあたりでは良くできるので、地元の人たちは「食べ飽きた」と言うような代物。僕らはもともと地元ではないので、食べ飽きないで喜んで食べています(笑)。美味しいです。気候としては育てやすいのですが、僕らの技術とか手間的な問題で、毎年あまりたくさんとれていません。改善したいところ。
セットの中の野菜の種類はだいぶ減りましたが、この時期まで人参が出せるのはうちの農園的にはすごいこと。5年目にして初めてのことです。ありがたや。他の野菜たちも、いつもの通り大切に味わっていただけると嬉しいです。

『3びきのかわいいオオカミ』
 ところで『3びきのかわいいオオカミ』(ユージーン・トリザベス文/ヘレン・オクセンバリー絵/こだまともこ訳/冨山房)という絵本があります。とても素敵な絵本です。友達が「いいよ」と言っていたので、初秋の雨の日、ゆっこさんが買ってきました。おススメなので、是非一度、読んでみてください。内容をがっつり書くので、絵本を先に読みたい!という方は、この下は見ないように!
 「3匹のこぶた」のパロディー作品で、原題は「The Three Little Wolves and the Big Bad Pig」。こぶたとオオカミが、小さいオオカミと大ブタに入れ替わっているわけです。内容は、始めの方は「3匹のこぶた」と同じような進行。こぶたと違い、オオカミたちは3匹一緒に建てますが、レンガの家→コンクリートの家→鉄骨・鉄板・鉄条網の家、というふうに、どんどん家を丈夫にしていきます。「ところが このブタ、わるいのなんのって もう とんでもない わるブタだったんです。」というわけで、ハンマーやら電気ドリルやらを持ち出し、どの家もブタはめちゃくちゃに壊します。そこまではただ笑えるパロディー作品ですが、その後の話が、「こぶた」達とは全く逆の方向へ行きます。小さいオオカミたちは、「いままで まちがった ざいりょうで うちをつくってたんだ」と思い、4つ目の家は「花の家」を建てます。風が吹いただけで揺れるけど、とってもきれいな家を。そして、その家も吹き飛ばそうと息を吸い込んだブタは、花の香りで改心し、オオカミたちと友達になり、「4ひきはそれから いつまでもなかよくくらしました。」というラスト!
 
 相手を恐れ、敵だと見なし、自分と相手の間の壁をどんどん厚くし、それでも相手が恐いなら、暴力的手段か何らかの方法で排除する。と書けばものものしいですが、個人の間、団体の中、あらゆる場所で日常にあるとことだと思うし、国家間でやれば戦争。そして「3匹のこぶた」は、そういう話に見えます。相手を敵と見なし、自分と隔て、排除しようとすることは、それはそれで自然なことかもしれないと思うけど、そうではない方向があるのだと僕は信じています。排除することも受け入れることも、どちらも僕らの中にもともと備わっているものと。僕らは3匹のこぶたたちのようにも、3びきのかわいいオオカミたちのようにも成り得ます。僕はオオカミたちの方向へ進んでいきたい。
 『3びきのかわいいオオカミ』の物語の中で、オオカミのお母さん「わるいおおブタには きをつけるのよ。」と言い、最初から悪いものと子どものオオカミたちも思っています。実際、凶悪そうな面構えでブタはやってきますが、どの家のときも、いきなり壊したりしません。必ず、玄関の呼び鈴を鳴らし、「なかにいれろ!」と言うのです。それを拒否されてから、ブタは家を壊します。実は初めから、一緒に遊びたかっただけなのかもしれない、というふうにも読めます。「3びきのこぶた」と違ってそもそも食べるのが目的じゃないだろうし。
 今、『3びきのかわいいオオカミ』が手元にありますが、「色の変化」がまたおもしろいです。最初のレンガの家は、とても素敵。木々に囲まれ周りも彩り豊か。しかし、コンクリート、鉄、と家がどんどん丈夫になるにつれ、絵の中から色彩が失われていきます。オオカミたちがそれぞれ灰色、黒、白、という毛の色なのですが、鉄の家の時にはもう家も背景もその色ぐらいしか使われていません。これ、軍事基地っぽいなと思ってましたが、刑務所みたいだなぁ。そして、4つ目の、様々な花を材料に作った花の家で、絵本はまた色彩を取り戻します。より豊かに、暖かく。
 
 この絵本は読んだ直後からこうしてお便りに載せたいと思っていましたが、他に書きたいことを書いていると大体紙は埋まってしまうし、書く時間に限りもあるので今まで書いていませんでした。この日本が戦争に向かって突っ走っているような気がするこの時だから、今こそ是非紹介しておきたい絵本だと思って、書いています。
 「そうはいっても、『敵』に花なんてあげられるもんか」「本当に殺されてしまったらどうする?」なんて思いが浮かんだりもしますが、人の中に、生き物の中に、全てを受け入れる能力が備わっているものと思っています。実際に、戦争の最中、平和的手段のみで敵対する両陣営に働きかけた人たちがいます。時に、銃を向けられ、仲間を殺されながら、それでも自らの平和を実現し続けた人たちがいます。他の猫のケンカの仲裁に入る猫だっているんです!争いも憎しみも怒りも苦しみも、僕の中には全部あります。同じように、平和も愛も優しさも幸せも、全部ある。相手に対して「鉄の家」をつくることもできるし、「花の家」を見せることもできるのです。自分の中の花を相手に見せられたら、相手がどう思っていたって自分の中でもうその人は「敵」ではありません。「汝の敵を愛せ」と言った人もいますが、愛せたら、もうそれは「敵」ではありません。(と、そもそも「敵」っていう字は、「向き合う相手」という意味だそう。憎しみ合う相手とか争そう相手とかそういう意味よりもともとはもっとフラットな意味のようです。)そうありたい、そうしたい、と思っても僕にはなかなかできませんが、どちらを目指したいかは、はっきりしています。自分の中の、平和の種を、優しさの種を、もっともっと育てたい。そして子ども達のそういう種を、大切に育てたいと思っています。何より大事なことは、今この場所を、しっかりと生ききること。今、微笑むこと。今、もし微笑んでいなかったら、どうぞ、微笑んでみてください。花が咲きませんか?
絵本も本も読み方はそれぞれだから、作者の意図がどうだかは知らないし、他の人がどう読むかもわかりませんが、僕はその絵本を読んでこんな風に感じました。絵もかわいいし、素敵な絵本です。出会えたことに、感謝しています。ありがとう。
 
今年も本当にお世話になりました。おかげ様で生きています。いつもありがとうございます。2013年もとても素敵な年でした。一日一日を大切に、良いお年をお迎えください。健
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ひとつぶ便り 159号

こんばんは。今日もお越しいただきありがとうございます。
冬至ですね。「とうじ」と打つと「杜氏」が真っ先に出てくるのは蔵人ならではか!
最近知ったんですが、夜がいちばん長いのが冬至だけど、日没がいちばん早いのは冬至の日じゃないんですってね。関東とかだと11月末~12月始めだとか。今、既に夕方の日は明らかに長くなり始めてます。
って、日付け変わってるのでもう冬至の日じゃない!

まぁそんなわけで、ひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 159号(2013年12月20日便)
 いつもありがとうございます。今日(18日)は結構雪降っています。長靴じゃないと濡れてしまうくらいは降りました。また、最近寒さがまた一段階上がった気がします。今夜もなかなか寒いです。このあたりではとても寒いとき、「今日はしみるね」という表現を使います。「凍みる」自体は他の地方でも使うようですが、こういう用法で使うのは長野県のあたりの言葉らしい。そうか。東京とかだとべつに寒くてもそう「凍み」ませんもんね。

今週の野菜セット

 今年もお餅便の季節がやってきました!今シーズンは田んぼもなかなか順調だったので、もち米もよく採れました。今までがあまり良くなかったってことも言えますが、今まででいちばん採れました。そのお米を使って、薪の火を使ってせいろで蒸し、機械でついたお餅です。それをのして、次の日に切って、袋詰めして、皆さんにお届けしています。お米はほとんど搗いていないので、色は茶色っぽく、味も栄養も豊か。うちも家族みんな大好きです。お楽しみください!

もうすぐクリスマス
 うちはキリスト教徒ではありませんが、子どもたちに何かプレゼントをしたりケーキ食べたりしてその日を楽しみます。ケーキ屋さんとか、おもちゃとか子ども関連の業界はこの日に稼がないといけないのでしょうね。お金の動きがすごそう。うちも今年はおもちゃを買いますが、こういうときに子どもの健康面とか、地球の環境負荷とか、そういう部分に配慮されているのはたいていドイツとか、北欧とか、そういうところのメーカー。こういうメーカーががんばれる環境って、羨ましく思います。と、書いていて思いましたがそういうメーカーががんばれる環境って、つまりはそれを買う客がたくさんいるってことですか。いいなぁそれ。おもちゃに限らず、教育とか福祉とか、ドイツやらフィンランドやら、すごく羨ましいと思う部分があります。全てうまくいっているなんてことは当然無いでしょうが、日本はもっと学べばいいのになと思います。「文化が違うから」という人がいますが、それなら文化を変えればいい話。今までも、文化なんて10年もあればひっくり返っているではないですか。

 ところで僕はキリスト教徒ではありませんが、キリストと呼ばれた彼のファンではあります。僕のイエス像は、京都に住む友人の話と、その彼の友人の本田哲郎さんという大阪の釜ヶ崎で活動する神父さんの『聖書を発見する』という本に拠りますが、イエスという人の生き様は、胸が熱くなります。燃えます。富も権力も名声も、何も持たずに生まれ、育ち、石工という過酷な日雇い労働者の立場から、時の権力者と真っ向から戦い、そして犯罪者にされて死んでいった人。その物語は例えば「貧乏人が金持ちに」「農民が天下人に」的な話とは全く違うもの。十数人の弟子も、血を扱うという理由で当時最も忌まれる職業だった漁師が半数以上。あとは元犯罪者とか。周りから見たらただのゴロツキの集まり、みたいな感じですよねたぶん。今でいったらどういう感じでしょう。どういう職業の、どういう立場の人たちでしょうか。現代で想像してみると、ものすごいことだとわかります。
 アメリカで、「炊き出しの列に並ぶイエス」という絵を書いた人がいるそうです。イエスは炊き出しをする側ではなく、される側の人間、ということ。実際にその立場にいたし、徹底してその立場から物を見て、行動していった人。本田哲郎さんは、「最も小さくされたものたち(抑圧されたものたち)と一緒にいなさい」というのが聖書の中に一貫するメッセージと言います。そして、常にイエスは「最も小さくされたもの」が自分のことだと言っています。そして、「私とつながっていなさい」と。手元に本が無いのでどういう表現だったか今わかりませんが、それが僕らが幸せになる道、ってことだと思います。
 今、最も抑圧されている人は、どこにいるでしょう?世界中に、そして日本で、差別され、搾取され、抑圧されている人たちがいる、ということを、僕はこれを書いていて意識するってのは遠くにいるということか。もっとその人たちとつながっていけ。というのが聖書のメッセージ。シンプルで、強い。そのメッセージを、灯りとして心にともしておきたいな。メリークリスマス!

「種まき」というよりも
 ところで、ひとつぶ農園のパンフレットの中で、「次の世代へ自分たちがどんな種をまけるのか?日々考え暮らしていきたいです。」と書いていますが、最近はやや違う表現をしたいなと思うようになってきました。畑があったとして、そこにどこかから種を持ってきて蒔く、というよりも、そこの畑には既に全ての種があって、条件によって発芽する種、育ちやすい種が決まってくる、というイメージの方がしっくりくる気がするのです。その畑というのは、例えば自分たちや子どもたちの心や体。そこに外から何かの種を持ち込む必要など無く、既に全てそこにある、ということ。戦争も平和も、苦しみも幸せも、悲しみも喜びも、不安も安心も。既にそこにある、ここにある、どんな種に働きかけるのか。どんな芽に水をやるのか、それを考え、行動していきたいです。
 今この場所を意識的に生きないのならば、不安の種や怒りの種や、争いの種などに、水をどんどんあげてしまうことでしょう。世の中の仕組みが、そういう種を発芽させ、育てやすいようになっています。比べさせたり、争わせたり、例えば学校へ行けばそれが基本。それに慣れれば、自分や他人をありのまま受け入れることは困難に。育てたいのは全てを受け入れる種。それを育てる確実な方法は、微笑むこと。今、微笑んでいますか?  健

ひとつぶ便り 158号

今日もお越しいただきありがとうございます。
今日は今週の野菜セットに入れるお餅をついていました。機械づきです。蒸すのは薪の火で。

夜はシュトーレン(クリスマスのドイツのお菓子パン)を仕込んでみた。レシピは林弘子さんの本をざっくり参考にしつつ。砂糖とかバターとか使わないから、そのへんは適当に応用しつつって感じでございます。まぁ、たぶん美味しくできることでしょう。ふっふ。

近頃下の子が僕を「こみけん」と呼ぶようになりました(うちでは「パパ」「お父さん」ではなくあだ名呼び)。「み」の発音は難しいようで、「こいけん」に近い。

では先週のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 158号(2013年12月13日便)
 いつもありがとうございます。今朝はうっすら雪が積もっていて、道路はスノータイヤじゃないとちょっと恐い感じでした。ちなみにここは、北海道並に寒いところだけど、真冬でも日本海側のような豪雪が降るような場所ではありません。それなりには積もるし、寒いからなかなか溶けませんが。
 冬になって、畑にはもうほとんど野菜はありませんが、収穫してあるもの、漬物など保存食などで食卓はなかなか豊かです。ひとつぶ農園が始まった4年前、野菜の種類も量も質も、全く良く出来なかった頃を思い出すと、そのありがたみや自分たちの成長を感じます。その、全然うまくいかない野菜たちの頃から買って食べて頂いている方々もいて、本当に、ありがとうございます。という気持ちです。今後ともよろしくお願いします!どんどん成長していきたいと思います。

秘密保護法のことなど
 秘密保護法、成立しちゃいましたね。今後、生活の中にどのように影響してくるのかわかりませんが、すごく由々しき事態なのでしょう。委員長の解任とか、かなり強引な手法で与党の人たちはあの法案を通したようですが、あと3年間、こんなことが可能なら、安倍首相と仲間たちのやりたい放題ですね。彼らのやりたい放題の先に、明るい未来があるとは思えません。彼らは色々、勘違いしているのではないかと思います。向かっているのは人が幸せになる方向ではありません。「国民」と呼ばれる僕らだけではなく、権力者である彼らもまた、不幸になる道です。今すぐ、考え直して欲しい。
 この前義父の家に行った時、ついていたテレビの中では「北朝鮮が暴走している」とかなんとか言っていましたが、そんなことを言う前に自分の国を見てみてください。日本を。元より、例えば原発のプルサーマル計画に反対した知事の側近を「自殺」させ、妹を拉致しそれによって脅迫し、虚偽の自白を引き出して逮捕して、失脚させて、なんてことを平気でやる国です。もし国が手を下していないにしても、そういうことが平気で起こる国ってこと。これは福島県の前知事の話ですが、似たようなことはたくさんあるのではないですか?ちょっと目障りだったら実際に命を奪ったり、社会的に抹殺したり、なんてことはきっとすごく簡単です。
 例えば原爆の後遺症で苦しむ人たちに対してとか、水俣病で苦しむ人たちに対してとか、すごく不誠実で差別的な対応をし続けていたり、例えばハンセン病患者を科学的根拠も何もなく最近まで隔離していた歴史があったり、思いのほかひどい国なんですねこの国は。学生時代とか、もうちょっといい国だと思っていました。その頃は「日本が好き」って言えました。今は言えない。もし「日本」という枠組みが戦争の為に使われるのなら、そんなものは無くなってしまえばいいと思います。大事なのは「日本」じゃない。僕らが空間と時間において、本来はそこに存在しない線を引いて自分と他人、団体等々隔てるのは、お互いの安全を守るためであったり、それが便利だからだったりするからだと思います。「国」という単位は、その中にいる人たちの安全を守る為に、その中にいる人たちを幸せにする為に、存在して欲しい。政治家も、市民も、みんなひっくるめた国民たちの為に「日本」があるのであって、「日本」の為に政治家や市民がいるわけではありません。愛国心なんて言葉を口にする前に、目の前にある木々を、足元にある土を、見上げた空を、大切に思う気持ちを養うべきだと思います。養うというか、思い出すということかもしれません。とにかく、「日本」という枠組みを、便利な道具を、国民の幸せや、世界の平和と幸せの為に使って欲しい。

動き。流れ。
 ところで今日、なんとなく体を動かしていてふと思ったこと。体にとって、「いいポーズ」のようなものがあるというよりは、「動いている」ということが大切なのかと。例えば呼吸の場合も、吸うことと吐くことの、どちらが優れているとかどちらの方が大切とか、どちらも重要とかそんな話では無く、吐いて、吸って、吐いて、吸って、の繰り返しそのものが大切。止まれば死んでるってことですもんね。体も、例えば伸ばすことだけが重要とか、縮めることだけが重要とか、なんてことではないのだと思います。動かすこと、動いていることこそ、重要なのかなと。寝返りうてなかったら大人はすぐあざみたいになって、そのまま放置しておけばその部分が壊死していくとか。
 と、いうことを考えていて、思い浮かんだのは川の流れ。川は、ダムのようにせき止めれば、よどみます。汚れます。そもそも流れていなければそれは川とは呼べません。水、という点では同じだけど、流れているか、いないかでそれは全く別のもの。きれいさも温度も違うし、そこに住める生き物も全く違ってきます。
 この世の中の全てのものについて、それを健全な状態に保つには川で言うところの「流れている」ことが重要なのと、そもそも「流れていない」ものが無いことを知ることが、重要なのかなと思います。人の体も畑の土も、固定的に捉える時、色々な間違いが起こる気がします。僕らの命は今、動いています。
 
娘たちのこと
 葉菜(はな、4歳)ちゃんは、よく歌います。初対面のお客さんなどがいると人見知りするどころかいつも以上にノリノリで歌っちゃいます。明らかにその場の思いつきの歌詞とメロディーを、大きな声で歌えるところがすごいぜ。そして、そのてきとうな曲で踊りだすのは花野(かや、1歳5ヶ月)ちゃん。昨日「こみけん」と僕を呼んでくれました!健

ひとつぶ便り 157号

こんばんは。今日もお越しいただきありがとうございます。
秘密保護法、通っちゃいましたね。べつに、政府の言う表向きの理由で考えるのなら、必要ない法律だそうで。やりたいことは他にあるってことですね。原発関係ですか?戦争ですか?福島第一原発のあの事故ですら隠蔽し放題なのに、そういうのにさらにお墨付きを与えるって、もう。今後は、原発事故が起こったことすら隠されるかもしれません。

日本が、「民主的な国家が非民主的国家になった」のではなく、「非民主的国家がさらに非民主的国家になった」ってことだと思います。今までも、散々情報の隠蔽やら人権蹂躙やらやってきた国です。やっている国です。秘密保護法もその一環。より、ひどい段階に入ったのかもしれませんが。

僕もこんなこと書いてたら捕まる日が来るでしょうか。戦時中、反戦の俳句一句詠んだだけで捕まったって話がありました。べつに、運動とか積極的にやってた人じゃなく、ほんと一句書いただけで。「戦争にはならない」とか、どこかで思っている自分もいるけど、たぶん、そんなふうに思っていたら戦争になってしまうような時なのです。明確に、強く、平和を意識し、行動し、実現していかなければいけないのだと思います。

では先週のひとつぶ便りでっす。

ひとつぶ便り 157号(2013年12月6日便)
 いつもありがとうございます。12月になりましたね。毎日寒い日が続いているので、だいぶ寒さにも慣れてきた気がします。「今日はあんまり寒くないな」と思って外を見ると強めの霜が降りていたりして。
現在冬の仕事として働いている酒蔵では、新酒が搾られ始めました。自分が造りに携わったお酒を飲めるのは楽しいなと思います。僕はお米を蒸したり洗ったり(機械でやります)するのが主な仕事の釜場というところで働いています。まだまだわからないこともありますが、まぁとにかく毎日やっています。

平和について

 前回はちょっと戦争について書きましたが、では平和というのはどういうものでしょうか。数年前までは僕の中で平和という言葉はだいぶ曖昧だったり漠然としていたりするものでしたが、最近はもっと具体的に、現実感のあるものとして捉えています。生物の中にある一つの性質として。
 戦ったり、競争したりというのは植物、動物、人間も含めた生き物の中にある性質だと思いますが、相手を思いやったり、受け入れたり、というのもまた、生き物たちが持つ性質だと思います。以下、去年の夏にこのお便りで書いたのですが、また少し書きます。僕らの研修先の織座農園にミレットという猫がいました。彼は僕が初めて会った時にはもうおじいさんで太っていて、好物の海苔のにおいを嗅ぎつけた時以外は基本的に動きの鈍い猫でした。すごく人懐っこくて、みんなに愛されていました。そんな彼が、他の2匹の猫がケンカ(取っ組み合いのぐちゃぐちゃ状態で人間も手が出せない)を始めたとき、機敏に動いてケンカを止める様を、2回見ました。一度は片方に体当たりして2匹を引き離し、もう一度は2匹に近づいて一瞬「どうしようかな」とためらう動きを見せたのち、片方に抱きついて、そのまま抱きかかえて自分も回転して引き離すということをやっていました。突き飛ばした時はその後、その突き飛ばされた方の近くに行って、慰めているようでした。ミレットがどんなことを考えてそういう行動をとっていたのかはわかりませんが、僕は彼のそんな姿を見て、「平和」というのが表面的で不自然なものではなく、具体的で実践的で、自然なものと思えるようになりました。自分の中にも、もともとある性質として。

 と、いうことを書いていて思ったことで、話は少し変わりますが、「平和」という言葉の中に、差別的な要素が含まれている場合が多々ありそう。その差別は戦争にもつながるようなもの。
 例えば僕は戦争の無い世界で暮らしたいと思っているし、それが良いものだと思っていますが、世の中には戦争が必要だとか、戦争がしたい人たちも多くいます。戦争がしたい人たちが多数を占める場で、戦争をしたくない人は、「普通じゃない」とか「馬鹿だ」とか「頭がおかしい」と言われるかもしれません。戦争をしたくない人は、その場から排除されるのが自然な流れ。そうやって、誰かを差別し、見下し、排除するような動きは、「平和」と呼ばれる状態からは程遠いと思います。しかし、そういう動きは、「平和主義者」の中からも、全く同様に起こったりします。つまり、戦争をしたくない、平和を望む人が多数を占める場に、戦争をしたい人がいたら、その人は「普通じゃない」、「馬鹿だ」、「頭がおかしい」と差別され、見下され、排除される、というようなことがあるわけです。その方向に平和があるとは僕は到底思えません。
 自分とは異なる考えと向き合うこと、そのまま受け入れることは、とんでもなく難しいのではと思いますが、その努力は何より大切なものだと思います。この場合で言えば、戦争をしたくない人たちは、戦争をしたい人たちと、どう向き合えばいいのか。どう受け入れればいいのか。う~ん。って思います。「戦争」という行為自体は絶対に受け入れられないけど、その人がどのようにしてそういう考えに至ったのかとか、今のどういうところが気に入らないのかとか聞いたり、自分も言ったりする中で、理解できる部分とか、共感できる部分も出てくるかもしれません。意見を言い合い、ぶつけ合うことは、すごく重要なことだと思います。みんなの意見が同じだったり、同じように見えたり、波風が立たない状態よりも、喧々諤々、お互いの意見をぶつけ合い、時に争っていたり戦っていたりするような状態の方が、「平和」と呼ばれる状態に近いことも多いのではないかと。
それと、「自分が正しくて、相手が間違っている」なんていうことは、どこまでいってもできません。そして、「正しい」と「正しくない」、「普通」と「普通じゃない」なんて基準は、動的すぎて、曖昧すぎて、あまり使っていい言葉では無いような気がします。絶対的な正しさなんてどこにも存在しません。正しいから平和がいいのではなく、それが幸せだと思うから、楽しいと思うから、平和な方向へ進みたいです。

平和の土台
 相手を受け入れることは、自分を受け入れることがしっかり出来て初めて可能になるように思います。自分で自分をありのまま受け入れる力というのを、すごく大切に考えています。例えば「自分○○ができるから、素晴らしい」みたいな自分の肯定の仕方は、ありのままの受け入れとは遠いもの。そうではなく、もっとまるごと受け入れる力があるのです。できるとかできないとか、すごいとかすごくないとか、そういうのは一切関係なく、関係なくというかそういうのも全てひっくるめてまるごと、受け入れる力が。僕はその力こそ最も重要だと思います。その力こそ、平和の土台になる部分ではないかと思います。自分の中にあるその力を信じて日々、大切に水をあげて育てていきましょう。     健

ひとつぶ便り 156号

こんばんは。今日もお越し頂きありがとうございます。
12月ですね。畑にはほとんどものが無くなってきて、貯蔵してある野菜たちの出荷がほとんど。
酒蔵の方では新酒を搾りはじめていまーす。

では先週のひとつぶ便り。(更新遅れました。)

ひとつぶ便り 156号(2013年11月29日便)
 いつもありがとうございます。ここのところ寒いは寒いですが、霜が降りない日が続いたりもして割と過ごしやすいです。今夜(27日)は現在雨が降っています。雪ではなく。先週のこれを書いているときもそうでしたが、今日もかなり風が強いです。
 畑にはほとんどものが無くなり、収穫して保存してあるものが中心の出荷です。種類もだいぶ少なくなってきますが、今シーズンも最後までよろしくお願いします。12月の最後の2週は例年通り、うちのもち米でお餅をついてお届けします。

秘密保護法のこと 戦争のこと

 昨日、秘密保護法案が衆議院を通過(強行採決により)したそうですが、今後どうなるのでしょうか。僕らの知る権利はどうなってしまうのでしょうか。そもそも現在、隠されていることがたくさんあって、知る権利なんてたいして大切にされていないんじゃないかと思いますが、それがこの法律によりもっと隠しやすくなりそう。ってことです。原発事故後、当時の政府はSPEEDIの放射性物質拡散予測を公表せず、それによって大量の被爆を負った人がたくさんいますが、秘密保護法があれば、隠したことも被爆者が出たことも、たやすく隠せるのでしょう。「原発の情報の公開はテロにつながる恐れがあるので秘密です」と。「その秘密を探ろうとしたら逮捕です」と。
 僕らの生活に、どのような影響を及ぼすのかなかなか想像できませんが、とにかく戦争をする国にしたい(実際に戦争したい?)首相が率いる政府で、秘密保護法はたぶん、そこへ直結する法律なのだと思います。やめてください。首相は戦争をできる国が「普通の国」という表現を使うそうですが、大事なのは普通かどうかではありません。普通が正しいわけではありません。戦争をできる国が普通なら、是非とも普通じゃない国を目指しましょう。そして、「普通」なんてものは流動的で不安定で実体のあるものではありません。つい50年前の「普通」と現在の「普通」は、全く別のもの。例えば家電製品で見たって明らか。もうちょっとさかのぼれば、今僕らが「日本」と呼んでいるこの国の中はいくつもの国に分かれていて、その国同士が戦争していたわけですよね。今僕らは日本国内で戦争が無いことが「普通」。でもつい何百年か前の人たちは、日常の中に戦争があることが「普通」で、国と国の境界が無くなって一つの国になるなんて、想像もできなかったと思います。僕らが「普通」と思っていることは、何年後かには全然違うだろうし、想像もできません。例えば10年後、日本はどこかと戦争しているかもしれない。日本という国自体が有るか無いかもわからない。または世界がもっと平和になっているかもしれない。「普通」なんて、何の当てにもなりません。重要なのは、どこを目指すのか。今、何をするのか。今、どうするのか。僕は戦争する国じゃなくて、世界の平和に貢献できる国を目指して欲しい。もっとマシな日本を、平和な世界を、想像することが難しいなと思うけど、僕の想像を超えることなんて日々起こります。想像することは難しいけど、自分の中にある平和を、生物の中にある平和を実現する能力を、信じています。それは、僕の中に怒りや暴力があるのと同様に、確かなものとしてここにあるものだと思っています。

 「戦争」ということも、なかなかリアリティを伴って想像できませんが、一つ、戦争という言葉を聞いたりこうして書いていたりすると思い出すことがあります。
高校のときの修学旅行(うちではホームルーム合宿という名称)、うちの高校は毎年沖縄へ行きます。観光の要素ももちろんありますが、「平和学習」というのが主題で、戦争体験者の話を聞くとか、資料館に行くとか、班によっては「集団自決の起こったガマ(洞窟)」に行って、そこでの生き残りの人に話を聞くとか、東京で気楽に生きてる高校生たちには結構衝撃的な内容も盛り込まれていました。僕はガマは行かない班でしたが、体験を話してくれたおじいさんの話は覚えています。といっても本当に一部分しか覚えていませんが、それが「爆撃されて、さっきまで話していた友人がバラバラになり、内臓(腸とか)が木に引っかかっていた」という部分。その時、想像してみたんですよね。その時近くにいた自分の友達の内臓が木に引っかかっている様を。高校時代の僕は、それ嫌だなって単純に思ったし、それは戦争に反対する理由として充分なんじゃないかって、思いました。今でもそう思います。事が起これば、飛び散るのは子どもたちかもしれません。
戦争を美化する人たちがいるし、戦争に反対する人たちですら、戦国時代の武将とか戦とかを美化していたりします。でも今も昔も、美しかった戦争なんて一つも無いと思います。少なくとも、血が流れず内臓も飛び散らない世界しか想像できない人が、「戦争は美しい」とか「正しい戦争もある」なんて言うのはきっと間違っています。

娘たちのこと
花野(かや・もうすぐ1歳5ヶ月)ちゃんの成長や変化を日々感じますが、最近彼女はよく笑い、そしてよく怒ります(笑)。喜怒哀楽という言葉がありますが、「哀」という感情はあまり見えません。他の3つは最近またすごくはっきりと表現するようになってきたように思います。「いやだ」とか、上手に発音するようになってきました。花野ちゃんのストレートな感情表現はなんだか憧れます。あと、連れ合いの名前「ゆっこちゃん」はマスターしたようです(うちでは「お母さん」とか「ママ」の通称が採用されておりません)。
葉菜(はな・4歳半)ちゃんもぐんぐん成長中。どんどんと、大人の持つ価値観を吸収していっている時期だと思います。それが決して良いものではない場合も多いでしょう。何かができるとか、どこがすごいとかではなく、自分をありのまま、まるごと受け入れられる力を、育てて欲しいなと思います。身をもって、それを示せるようになりたいです。健

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