ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 179号

今日もお越しいただきありがとうございます。雨マークしかない予報だった割に実際はかなり晴れてくれてて助かります。ちょっと雨欲しいぐらい晴れてくれてます(笑)。

眠いので特に補足なしで寝まーす。おやすみなさい。

ひとつぶ便り 179号(2014年8月22日便)
 いつもありがとうございます。台風が過ぎたら晴れが来るのがいつものパターンですが、今回はなんか台風のあとに梅雨みたいな天気が来ました。毎日雨。実際天気図見ると、梅雨前線みたいのありますよね。「これ、晴れたら暑いんだろうなぁ」って日もありますが、結局晴れないからそこまで気温も上がらず、野菜たちが大きくなりません。うちはもともと栽培が上手な方ではないのでそのせいもあるかと思われますが、この辺で最強クラスの有機農家さんが「この時期はいつも野菜が余って困るのに、今年は欠品だらけだよ」と言っていたし、19日の信濃毎日新聞の一面には「夏の荒天 野菜高騰」という記事。どこも苦労しているようです。ちなみにうちは野菜の値段いちいち変えたりすることはしていないので、野菜が高騰していると相対的に安かったりします。逆もあるってことなので、結局ならせば同じことかもしれませんが。
 18日、19日、20日と、やっと晴れてくれて、気温もかなり上がってくれたので、なんとも嬉しい。雨続きで畑が耕せず、種まきもできなかったので、この晴れ間にカブや玉ねぎなどの種まきをしました。しかし週間予報を見れば、この後また雨が続くようですね。ひぃぃ。
 
今週の野菜セット
 そんなわけでトマトもなかなか赤くならず、ズッキーニはほとんど採れない日もあり、みたいな状況ではありますが、採れた野菜をお届けします。生育はゆっくりですが、台風で何かが倒されたとか、雨で何かが致命的に腐っちゃったとかそういうわけでは全くありません。売る、という行為がそこに入るので問題も出てきますが、野菜たちにとっては少しゆっくりするか、ってぐらいな感じで全く問題はないし、僕らがやっているのが家庭菜園であったら全く問題ないんだなと思います。

「ゆとり家」への旅
 先週の日曜日(10日)、まさに台風接近する中でしたが、かねてから行きたかった神奈川にある「ゆとり家」というところへ行ってきました。ゆとり家は、僕の大好きな禅僧・詩人のティク・ナット・ハンの本の翻訳をよくやっている、島田啓介さん(だーさん)家族の家で、「2008年8月7日に開所してから、いくつものワークショップ、講座、個人セッション、コンサートや瞑想会、自然を生かした季節の散策や子どもの遊び会、農業体験、そしてパーティや貸しスペースも行っています。」(「ゆとり家」ホームページより引用)。というところ。僕が今回参加してきたのは、そこで毎月一回やっている「気づきの日 一日瞑想会」というもの。すごく、刺激を受けたし、素晴らしく楽しかったです。

 「瞑想」とかいうと人それぞれ色々なイメージがあると思うし、実際に色々な種類があるのだと思いますが、僕が5年前くらいから実践しているこの〈気づき〉の瞑想と呼ばれる手法は、仏教におけるもっとも伝統的なものです。ブッダ(お釈迦様)が語った話(お経)の中で最も多く登場する言葉がサティ=〈気づき〉=マインドフルネス、だそうです。そしてその〈気づき〉こそが、苦しみを無くす為の最重要項目の一つであるということ。それは、超能力とか、祭祀的な何かではなく、ただ「今ここ」を生きるという実践。例えば今、呼吸をしていることに、今、食事をしていることに、座っていることに、歩いていることに、車を運転していることに、話したり聞いたりしていることに、文字を読んでいることに、パソコンで文章を打ち込んでいることに、気づくということ。それを自覚するということ。無意識でなく、意識的でいるということ。また、自分が今、快か不快かどちらでもないかの感覚や、喜んでいるかとか怒っているか、平静か、とかの心の状態を、自覚する。意識的でいる、ということ。これは、いつでもどこでもできる実践です。今回、ゆとり家の島田さんも言っていましたが、座禅=座る瞑想だけが瞑想ではないし、座る瞑想、歩く瞑想、食べる瞑想、食器を洗う瞑想、いつでも何をしてても瞑想ができるわけですが、どの瞑想が上、とかいうこともありません。どの瞬間、どの場所における瞑想も、同じように重要。
と、ここまで読んで簡単そうに思うかもしれませんが、僕らは現在ではなく過去や未来に、今いる場所ではなくどこか別のどこかに、意識を飛ばすことに慣れています。今ここにとどまる、というのは自分を癒し、苦しみから救ってくれるもので、楽しいものでもあるのですが、実際はなかなか難しい。だから、例えば呼吸や歩行を使いながら、今ここにいる力を養っていく必要があるのだと思います。
 ちなみに日本にはこの〈気づき〉という言葉は正しく訳されて入ってきていなかったようで、仏教者でも直接知らない場合が多いのではないかと思います。でも、どの宗派であってもそのエッセンスは受け継がれているものだと思うし、日本では武道、茶道、華道などの中にも深く息づいているものだと思います。最近は、ちょっとマインドフルネス(〈気づき〉)のブームらしく、本も色々出ていて(すごく少数派ではあるのだろうけど)知っている人も多くなってきたようです。

 僕は5年前、ゆっこさんが持っていたティク・ナット・ハンの『ビーイング・ピース』という一冊の本に救われました。5年前は、研修先から独立し、結婚して葉菜ちゃんが産まれ、農業も家の中も自分のことも全く何もうまくいかない時期。自分はこのままじゃ絶対もたない、っていう思いが強くあって、何かにすがりたかったけど、宗教は嫌だなって思いがあったり、頭だけで考えてどうこうなるものではないと思っていたりでどうしたもんかなと思っていたときに出会ったのがその本。宗教や哲学が欲しかったわけではなく、「実践」が欲しかった。ティク・ナット・ハンの説く仏教はまさに、宗教ではなく、哲学でもなく、実践そのものでした。最初、ほとんど〈気づき〉についての意味もわからなかったけどとにかく、やってみました。呼吸をしていることに気づき、微笑むことを。その効果は絶大!それ以来、実践し続け、まだまだ「今ここ」に100%いられることなんてほとんどないくらいだけど、それでも奇跡と呼べるような変化があります。今、苦しんでいる人も、幸せな人も、どちらとも言えない人も、どんな人にも、どんな状況にも役立つ〈気づき〉の実践です。最近のおススメ本はティク・ナット・ハン著、島田啓介・馬籠久美子訳の『ブッダの幸せの瞑想(サンガ)』。具体的な実践方法を集めた本。わかりやすいです。
 個人としても、一緒に実践する近くの仲間との共同体としても、実践を深めていくヒントや新たな出会いを求めて今回、ゆとり家に行ってきました。やったのは、15分沈黙し、食べ物のことだけを感じながらゆっくり食べることとか、一歩一歩、どこも目指さず歩くとか、座る瞑想とか、あと歌を歌ったりとかもしました。みんなが普段していることとほとんど変わらないことですが、そこにいる全員が一つ一つの行動に〈気づき〉がある共同体の、すごく優しく大きな力を感じました。あぁ書ききれない(笑)健
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ひとつぶ便り 178号

今日もお越しいただきありがとうございます。今日、久々に一日晴れてくれました。台風が行ったあと、梅雨みたいな天気で毎日雨。晴れ間もないので気温もなかなか上がらず、野菜もなかなか大きくならんです。例年、供給過剰になるくらいのこの時期なのに、今年は不足気味。色々ありますね。

では今週のひとつぶ便り!

ひとつぶ便り 178号(2014年8月15日便)
 いつもありがとうございます。台風が過ぎて、静かな夜です。今回、僕は個人的な用事で台風の最中、神奈川まで出かけていましたが、行く先々でたいした風と雨に見舞われず、傘もいらないときもあり、かなり幸運だったように思います。運に頼って旅をしたりしては行けないと強く思うし、今回は本当なら行かない方が賢明だったのかもしれませんが、どうしても今行きたい場所だったので、行っちゃいました。行って本当によかったです。そのことはまた後で少し書きます。と書いたけど、書いていたら書くスペースなくなっちゃったので(笑)、また次回かそのうち書きます。

今週の野菜セット
 夏野菜真っ盛りのシーズンです。が、このところ少し涼しいので先週に比べれば少し育ちが低調です。僕らもどれもとても美味しく食べています。これを食べている今夜は天ぷらを食べましたが、ナスと油は本当に相性がいいですね。ナスの天ぷら、本当に美味!ちなみにうちで今使っている油は、佐久市の有機で菜種を使い、低温圧搾という方法で搾っているすごい油です。お値段もお手頃。というか安い。何より、すごく美味しい。こんな油が使えるのは本当に素敵なことだと思います。ちなみにスーパーなどに売っているキャノーラ(菜種)油とか、サラダ油(大豆由来が多い)とか、色々あると思いますがそれに使われている材料はほぼ全て遺伝子組み換えのものです。菜種にせよ、大豆にせよ。で、搾り方も、たいていは薬品を使った方法で油にされているそうです。
 ちなみにナス、市場に出回っているのはほぼ100%、雑種第一代(F1)と呼ばれる交配種ですが、うちのナスは全て固定種です。紫で丸いのは、「小布施丸茄子」という長野県の伝統品種。緑で巾着みたいな形のは埼玉の伝統品種「埼玉青」。ヘタが緑色っぽいのは米ナスと呼ばれる「ブラックビューティー」。ブラックビューティーがアメリカから日本に来て改良されたものを米ナスと呼ぶらしく(今調べました(笑))、元祖米ナスってことですね。これは自家採取。そして、中長ナスは今年初めてやる品種の「橘田中長」という品種。という感じの今年のナスのメンバーです。この中から何種類か入ります。ナスも僕らはそこまで得意ではなく、品種も毎年色々試していますがなんだかんだで最初の頃から作り続けているのは「埼玉青」。ヘタのトゲが痛いのでちょっと気を付けて欲しいですが(トゲだけじゃなく茎も、葉っぱの葉脈からもトゲ出ています(笑))、それは強さの表れなのか、結構育てやすくて、味も揚げ物がよく合う美味しいナスです。

8月といえば
 8月といえば毎年、特に戦争と平和ということを意識させられる月ですが、今年はちょっと感じ方が違う気がします。安倍首相率いる政権が、秘密保護法や集団的自衛権の行使容認とか、とにかく戦争まっしぐらで、8月になる前から戦争について意識せざるを得ない状況だったので、特に今月が、って感じがしないのかなと思います。今月の10日は長野県知事選でした。こんな状況だから、自民党が推す人にはノーと言わなければいけないのだと僕は思っていますが、共産以外の全政党が推した現職の阿部さんが再選。その結果もさることながら、投票率が過去最低の50%割れ。台風が重なったから、というのもあるみたいですが、こんなの悲しい。50%割れたらもう一回、とかいうルールあればいいのにと思う。今回はどう転んでも阿部さん、みたいな選挙だったのだと思うし、それで支持する人もしない人もどちらも「行かなくていいや」になったというのもあると思います。なんでしょうね。自らの意思で行かなかった人。は、自分の持ってる一票の重みについて、深く考えて欲しい。「結果」って、勝ったか負けたかだけの話ではありません。知事に成る人が同じだったとしても、長野県は投票率100%!ってなったらすごくかっこいいって僕は思うし、その為の工夫が少なすぎると思います。投票させない為に、わざとなのかもしれませんが。たぶん、市民に無力だと思わせるのが権力者たちの思惑。乗ってたまるものですか。そして事実、僕らは無力ではありません。行動の一つ一つが、戦争にも平和にもつながっています。目の前の物を深く見ていくだけで、それを想像することができます。今目の前にある紙でも、パソコンでも、食べ物でも、人でも、服でも、何でも。それはどこで、どのような関わりによって作られているものですか?

 僕らは戦争を体験したことがない、と言われる世代だけどじゃあ平和はどれほど体験したことがあるのかなと、今思いました。日本と他の国が交戦状態にない、ということは素晴らしいことなのだろうけど、だから平和なのかと問われれば、そんな気は全くしません。今、この日本という国、僕らの生きる社会は平和ではないと思います。差別に、搾取に、そして争いに満ちています。差別とか搾取とか書けばちょっと遠い話のように聞こえるかもしれませんが、日常に、僕の目の前に、それは溢れています。毎年3万人を自殺させる国が、平和なはずはありません。日常にあるちょっとしたからかい、いじめ、言葉の暴力、蔑み、妬み、色々あると思いますが、それはちょっとしたことだと思うものでも、一つ一つ、恐ろしい力を持ったものだと思います。人ひとり、殺す力だってある。逆に、日常にあるちょっとした優しさ、思いやり、楽しさ、共感すること、理解するとこ、そういうものの持つ力っていうのも、すごいものなのだと思います。それが人の命を救います。
 ついさっき浮かんだイメージなのですが、国と国が、人と人が命を奪い合う、おびただしい暴力と暴力のぶつかり合いを戦争と呼ぶのなら、その全く反対の状態であるはずの平和は、ただ「戦争をしていない」という状態ではなく、国と国、人と人が命を救い合う、おびただし優しさと優しさ、愛と愛、理解と理解の重なり合い、みたいなものなのではないかと。つまり、戦争という状態が特異な状態であるのと同様に、平和という状態も似たように特異な状態ではないのかと。そして、戦争状態が実現するのに比べて、その平和という特異な状態を実現するのはきっと難しい。けど、可能だと僕は思うし、国という単位でなくても、実現しているコミュニティは今も世界にたくさんあると思います。例えば国という単位でそれが実現するのなら、すごいこと!想像すると、わくわくします。
 平和なんてきれいごとだとか、世界平和なんて実際無理、とか、僕もかつて思っていたけど、それは自分個人の平和を信じられなかったからだと思います。今も、自分の中にはたくさんの暴力があるし、差別もあるけど、それと向き合い、より平和なエネルギーに変えていくことも、少しずつできるようになってきました。それは家族と、ティク・ナット・ハンという禅僧・詩人(筆舌に尽くしがたくおススメ!)のおかげ。今やるべきことは、今この場所を目いっぱい、自覚的に、意識的に生きること。皆さん。今、呼吸をしていることに気が付いていますか?ちょっと思考を休めて、ただ呼吸を楽しんで、微笑んでみてください。奇跡って、超常的な何かのことじゃなく、今この瞬間のことです。           健

08/13のツイートまとめ

Komiken_

トマト、ミニトマトがやたら採れているのでトマト便、お送りできますがいかがですかー?
08-13 21:01

ひとつぶ便り 177号

今日もお越しいただきありがとうございます。台風が過ぎて、静かな夜です。

僕は台風の最中、ちょっと神奈川まで出かけていまして、こちらの荒れ具合を知らないのですが、かなりの雨と風だったようです。風で倒されてしまった野菜などもありますが、そこまで深刻な被害は無さそうです。よかった。

では、遅くなりましたが先週のひとつぶ便りです。どうぞ。

ひとつぶ便り 177号(2014年8月8日便)
 いつもありがとうございます。昼間はものすごく暑い日が多いですが、夜は涼しい。窓を開けていると肌寒さを感じる日もよくあります。昼間は30℃を超えるのに夜は冷える時15℃くらいになるので、朝になると朝露がすごい。車のガラスとか路面とか畑とか、びっしょりです。寒暖の差によって野菜など、植物たちを美味しくなるそうです。味は土質とか栽培方法、その年の気候等々によっても全く変わりますが、寒暖の差というのも大きな要因のようで、そこが確実に確保できるのはすごくありがたいことです。

第4回 フクシマのこどもサマーキャンプin小諸
 ↑というののお手伝いに家族4人で行ってきました。まぁ子ども達含め4人で行っている時点であまり手伝う気がないんじゃないかというツッコミはごもっとも。実行委員として活動してきたわけでもなく、友達の誘いで遊びに行ってきた、というのがたぶん正しい表現です(笑)。
 キャンプは、福島から子ども達が8月1日に来て7日に帰る日程で、内容は盛りだくさん。僕らが参加した日は、午前中は塾の先生がボランティアで来て、みんなで宿題をやるという内容。僕らは宿題が終わった子とか、やらない子と一緒に別の部屋で遊ぶ役。折り紙とか知恵の輪とか、色々とおもちゃがあって、子ども達と一緒に楽しく遊びました。午後は近くのプールへ。プールなんて久々に入りました。葉菜ちゃんと花野ちゃんは、初めての大きいプール。僕らは「見守りボランティア」のはずでしたが、キャンプに来ていた小学生たちがよく葉菜ちゃんたちと遊んでくれて、むしろこっちが見守られていました(笑)。ありがとう。色々な子どもと接することは、大人たちにとってすごく貴重な体験ですね。
 
 ところで僕は長野県に来る前の2007年、福島県で農業研修していました。と書いていてなんだか違和感。それはたぶんその当時、周りの人たちがほとんど自分たちの住んでいる場所を「福島」と呼んでいなかったから。それに影響を受けて僕も使っていませんでした。「福島」ではなく「会津」なんですよね。会津人の意識。福島県は太平洋側から浜通り、中通り、会津と、地方が3つに分けられます。会津はいちばん山側。冬は晴れ間がほとんどなく雪深い、日本海性の気候。長野県も北の方と真ん中の方、僕らの住む東、南の方では全く気候が異なるし、同じ地方の中でも山が多いので気候が全然違ったりしますが、他の県の人に自分たちの住んでいる場所を問われればほとんど全ての人が「長野県」って言うでしょう。けど福島における会津の人々はそう言わないことがたぶん、多い。少なくとも「福島です」でなく「福島の、会津です」って言うと思う。この感覚、あくまで僕が間違って染まっていなければの話だけど(笑)。
 思うことは、もし会津が例えば「会津県」として別の県だったら、今回の事故でたいして騒がれない場所なんだろうと思います。汚染はあるにせよ、他の県、例えば茨城とか栃木、群馬、宮城、などの方がよっぽど汚染がひどい場所があります。県境で放射能は止まらないのに(山で県境、という場合は県境でかなり止まっていたりもするけど)、福島県というだけで騒がれるというのはおかしなことだと思います。地形、風向き、その時に雨が降ったか、などの要因により、同じ地域でも汚染の濃淡が全く異なります。同じ畑の中でも全然違うようです。距離の遠い福島以外の場所でもすごい数値が出ることもあれば、ホットスポットと呼ばれる福島市の中でもほとんど汚染がない土もあると、事故直後に測ってもらった団体の担当者の方が教えてくれました。
 福島の原発で事故が起こったからって、福島県だけに被害がいくわけではありません。事故の被害を福島県だけと考えるのは、明らかに間違いです。今回の事故に関しては漢字ではなく「フクシマ」と片仮名で表現した方が、適切に感じます。「ヒロシマ」「ナガサキ」が県名を表すものでないのと同様、福島県を表す「福島」ではなく、「福島第一原発の事故」という意味での、「フクシマ」。それで言うなら僕らの住む長野県もフクシマの被災地です。現在、野生キノコはあちこちで基準値越えが出て、食べられなくなっています。福島県だけの問題ではありません。日本、そして世界の問題。国を挙げて、子どもも大人も、守って欲しい。「フクシマ」は過去のことではなく、現在進行形の過酷事故です。

今週の野菜セット

 夏野菜!どーん!というセットでございます。なかなか野菜が華やかな季節ですので、周りにお野菜好きの方いらっしゃいましたらご紹介ください。良かったら贈り物にも使ってくださいね~。
 前にも少し書きましたがトマト、ミニトマト、ナス、ピーマン、縞と丸ズッキーニ、キュウリなどは全て固定種です。トマトはほとんど自家採取。キュウリもです。キュウリはもともとは自農センター(公益財団法人 自然農法国際研究開発センター(長い(笑)))というところが育種した種や、地方品種の種を買ったもの。それを種取りして、使っています。キュウリの花粉は虫が運ぶので、違う種類を近くに植えておけば品種同士、交雑してしまいます。だから、その品種を純粋につないでいきたければ、一品種だけ育てるか、品種ごと遠いところに植えるか、近くに植えるなら花に袋をかけたり、ということをしなければなりませんが、そんなことをしていないので、色々混じって色々なキュウリができています。長さもイボの感じもほんと色々。まぁ美味しいから問題ないかなと思います(笑)。現在は、同じ大きさ、同じ見た目の野菜しか、市場には流通させることができない仕組みですが、多様性こそ生命の強さと呼べるものだと思います。一つの品種だったら、同じ病気で全て枯れる、ということもあり得ますが、多様な品種だったらそういう危険性は低くなります。
野菜なら優等な一品種だけが、人間なら優秀な一種族だけが生き残るべきだ、みたいな考え方は、全く誤りです。そもそも、何が優秀なのか、僕らには何も判断できません。環境によって、良い、悪いは全く逆になることだってあります。大切なのはきっと、多様性を確保しておくこと。人の場合、それを考える上で重要なことは、少数派をいかに大切にできるか、ではないかという気がします。例えば小学校の30人のクラスで、1人だけ集団に馴染めない子をどう大切にできるのか。その1人を大切にすることは、他の29人を大切にすることなのに、その子のケアは行わず、行いたくても一人の先生ではとても行えず、結局その子は傷つき、苦しみ、さらに馴染めず、ってことになりがちだと思います。そして、テレビ等で例えば自分と異なる性質を持つ人、「変な人」を嘲笑することに慣れている「ふつうの子」たちは、何の疑いもなくその1人を嘲ったり蔑んだりするのだと思います。それは、自分を苦しめることだと知らず。せめてもう少し、優しい国に、社会に、なれないものかと思います。憲法はあんなに優しいのに。人はもっとひたすらに、優しくていいはず。幼い子どもたちの、親に対する優しさのような優しさを、僕も持っているはずだし、全ての大人が持っているはず。そこのところもっと信頼して、もっと思い出して、触れてみて、育てたらいいと思います。 健

ひとつぶ便り 176号

今日もお越しいただきありがとうございます。

今回の通信の「器」の話、あくまでたとえだし、それが誰かや自分の理解の為に使えるのなら使ってもらえばいいし、もし他者への差別や蔑み、自らの劣等感を増す為に使おうとするなら、決して使わないでください。
それと、食器の話ばかり書いたけど、食器に限らない方が考えやすいかも。

では先週のひとつぶ便りでござる。


ひとつぶ便り 176号(2014年8月1日便)
 いつもありがとうございます。梅雨が明けて、とても暑いですね!やたら暑かった26日、長野県でも65人の人が病院に搬送されたそうです。日蔭でも暑いって、この八千穂ではそうそう無い気がするんですが、その日は暑かった!その日の昼間は、八千穂の駅前の通りにある小さな雑貨屋さんの駐車場の一角で野菜市を開いていて、いちばん暑い時間帯は僕もそこに顔を出していたので畑にはいなくて、農作業もしませんでしたが、それが良かったかも。水、欠かしちゃいけないって良く言われますが、ほんとこういうとき大事なんだろうなと思います。でも、それでもなるときはなるらしいし、それに加えて、というかそれ以上に、涼しい場所に籠って何もしない、というのができるなら、それがいちばん有効な対策だと思います。「駅前食堂」は古い土蔵を改装した建物ですが、中がすごく涼しかった。蔵すごい。
 27日も暑かったですが、木陰は涼しく、太陽が雲に隠れれば涼しく、夜は肌寒いくらいになり、その前の日とは全然違いました。26日、ほんと暑かった。でも!故郷、練馬とかと比べたら、遥かにマシですね。湿度が全然違います。こちらはかなり湿度が低い。炎天下、東京都の中でも特に暑い練馬で、グラウンドを駆けずり回っていた時代もあったので、そんなのと比べればへっちゃら・・・でもないけど(笑)。
そういえば、練馬は暑くて風がないと、光化学スモッグ出て苦しいんですよね。毒の霧が出て、注意報か警報が出て、外で遊んではいけない。ってすごいことですよね。今住んでいるところでは、想像できません。それってありがたいことなのか。練馬は生まれ育ったところだし、全然嫌いではありませんが、空気はもうちょっときれいだったらいいなと思います。フクシマの事故があって、放射能の汚染も各地でありますが、あういうことが起こる前からずっと、空気も水も土も汚れ続けてきているのですね。小学生の頃から記憶がありますが、光化学スモッグは直ちに健康に被害があります。息を思い切り吸うと、喉がかゆくなるし、運動したら呼吸が困難になることもあります。東京都のホームページによれば昨年の光化学スモッグ注意報の発令回数は17回。信州にいると全く忘れそうになりますが、都会の人たちはこれが当たり前なんですよね。本当は、とんでもないことだと思います。

今週の野菜セット
 トマト、インゲンはやばいほど採れるし、ナスもやっとこ調子が出てきて、だいぶ実がなっています。夏真っ盛りで、猛暑を感じさせる気温が毎日続いていますが、いつまで続くのでしょうか!一年で一番華やかなこの時期の野菜たちをお楽しみください。うちは毎日野菜祭りです(笑)。


 ところで、この前友達と話していて、おもしろいなと思ったこと。その友達D君は、とりわけ人の感情とか読み取るのが子どもの頃、得意じゃなかったので、自分で色々と試し、訓練した結果、例えば人の存在やその感情を、言葉ではなくイメージ(雲のようなものらしい)で捉える技術を確立しました。当然、間違えた捉え方もするのでしょうが、そもそも彼は、自分についても周りについてもすごく客観的に見られるので、僕の中の信頼性は高い。別にスピリチュアルな能力とかそういうわけでは決してなく、誰でも多かれ少なかれ、自覚なしでやっていることを、より自覚的に具体的に形にしている、ということだと思います。すごく、おもしろい。
 で、そのイメージを使って、実際にその人にどう対応したらいいか、などを考える材料にするみたいです。その人を見て、話を聞いて、「雲みたいなもの」を描く。ちなみに僕は丸っこく、少し平べったく、動きはゆっくりの、そういうもの。みたいな感じで。で、この前話していたら、人を捉えるときに使うそれは「器」とも言えるようです。「中身もある」らしい。僕の場合は、平たい大きなお皿、みたいな感じだそうで。中身の話はあまり深めてないな。とにかく、それぞれがそれぞれ、形や大きさ、材質の異なる「器」だということ。この捉え方、すごく分かりやすいし、示唆に溢れている気がしました。
 
「器量」だとか「大器晩成」だとか、「上に立つものの器」とか、人を表す言葉にそういうふうにそもそも結構使われているもので、人を「器」と捉えること自体は、珍しくないのかもしれません。でも、たいてい使い方を間違えている気がします。例えば「あの人は器が小さい」というのを悪口として言いますが、器の大小に優劣なんかありません。例えばそこが食卓で、色々な料理があるとすれば、大きい器も、小さい器も、どちらも必要。全部大きい器だったら、邪魔なだけです。「器が小さい」って、何も悪いことじゃない。「もうちょっと小さい小鉢が欲しいなぁ」とか思いますもんね。大小は優劣とは違います。
器の大小、形、色、それぞれにそれぞれの役割があります。僕ら全員がそれぞれ器だとして、今、僕らの生活の中で起こっているのはこういうこと。例えばコップがお皿に向かって、「私は水が入れられて素晴らしい器だ。お前は水が入れられない愚か者だ。もっと努力すべきだ」とか言ったり、お皿がお茶碗に「お前はご飯しか入れられない。もっと色々なものを入れられる形になるべきだ」と言ったり。って、おかしな話じゃないですか?コップもお皿もお茶碗も、誰がいちばん偉いとかいうことありません。それぞれの形と大きさがあって、適した中身があるってだけのこと。自分の大きさや形や色、相手の大きさや形や色を理解せず、お互いの違いを理解できないということ、多い気がします。その違いはただの違いなのに、そこに劣等感や優越感をくっつけて、上に書いたような傷つけあいをしていることがきっとよくあります。相手に自分の特徴を強要したりもします。そしてまた、現在のこの国は、「なんでも入れられる便利なお皿」ばかりにしようとはしていませんか?それ、便利でもないし、それぞれも苦しいはず。
あと、これはあくまでイメージの話、たとえ話だし、真実そのものではなく真実を見る為の手掛かりとして使うものです。人という「器」は、本当の器とは違い、形が変わったり材質が変わったりということも随時しているものだと思うし、変えることもできるのかと思いますが、例えば平たいお皿がちょっと深くなったり、のような変化ではなく平たい皿がコップになる、みたいな自分の形とは全く異なる無理のある変化を強要されたりする時、その器は歪んだりひびが入ったりしてしまうのだと思います。
どの器が正しいなんてことはなく、どの器がどの器より偉い、なんてこともありません。全ての器が大切に扱われたらいいなと思います。僕らはしばしば、自らがコップなのにパンを入れようとがんばったり、相手がお皿なのに水を入れることを強要したりしてはいないでしょうか。それで、それぞれの器が、苦しんではいませんか?例えばそこにパンと水がある時、コップとお皿がそれぞれ自分の形と特徴を理解しているなら、やるべきことはとても簡単です。そういう、それぞれの理解こそ大切だと思います。健

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