ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 221号

今日もお越しいただきありがとうございます。先週のやつをまだアップしてませんでした。今週のもあるのでまた近々アップします。では先週のひとつぶ便りです。


ひとつぶ便り 221号(2015年9月18日便)

 いつもありがとうございます。長かった雨がやっと一段落してくれて、少し晴れが続いています。晴れ間が出ればまだ暑い日もあります。長雨のせいでだいぶまだ畑は湿っぽいので本当はもう少し乾いてからやりたいところなのですが、またすぐ降りそうだし、この後のニンニクの定植や小麦まきなどの為に、トラクターにフレールモアという草をバラバラにしてくれる機械をつけて、畑の中の草をバラバラにしています。このフレールモア、すごく優れものです。生活物資にせよ農作業の道具にせよ、あまり物を増やしたくないという思いがありますが、これに代わるものがなく、僕たちの農業には非常に有り難いもので、これはいい買い物だったと思います。ビニールマルチを使わず、人間の馬力も少ないひとつぶ農園では、すごく重宝しています。ある程度草の伸びた畑を、フレールモアをかけたあと、ふつうのロータリーに付け替えて耕します。有機農家ではない一般的な農家さんたちは、マルチ用、ロータリー用、農薬散布用、とか用途に応じて一台ずつトラクターを使っていますが、うちは小さいトラクターを一台だけ持っているので、後ろを付け替えて使っています。

災害

 長雨と日照不足、低温と、なかなか野菜が育たない状況ですが、畑が全て水没したり、流されてしまったような人たちに比べれば、なんということはありません。被害を受けた方々に、なんと言えばいいのか言葉が見つかりません。
 人間が何をどうしようとも、全ての災害を避けることはできないと思います。そもそも災害の起こりにくい場所に住むとか、災害の起こった時はどうするかの備えを普段からしておくとか、昔からできた、基本的な取り組みが、結局最も有効な気がします。技術的には、天候を変えるようなことも現在はできるようですが、何か一部を無理矢理に変えたりすると、他のところに無理が来るのはどんなことにも言えます。一部だけ、一回だけ、いいように変えることなど、無理なことです。様々な、絶妙なバランスの上に成り立っている自然の大いなる流れに、短絡的な思考によって関われば、良い結果は生まれません。
また、何年か前にタイで洪水があったとき、水田だった土地を日本企業などが工場を建てた結果、田んぼの持っていた保水力が失われて、洪水の原因になったのではないかという話がありました。田んぼや畑の保水能力は、農業の持つ多面的機能と言われるものの一つ。これは数値化も難しいだろうし、たぶんこれははっきりとしたことは証明のしようがない部分が大きいですが、人がもっと自然に寄り添って生きていた頃に受けられていた自然の恩恵を、僕らは自らの手によって受けられなくして、逆に被害を受けることが多くなっているのではと思います。
 太古の昔から、人は自然災害によって大きな被害を受けてきたものと思います。僕らの住む東信地域でも、過去に大洪水があって、佐久町(現在は佐久穂町)では集落ごと流されて壊滅、というところもあったそうです。「戌の満水」と呼ばれる、大規模な天然ダムの決壊による洪水と言われていますが、これが1742年、旧暦の8月1日だったので、佐久地方では現在も8月1日にお墓参りをする習慣が残っています。2011年の地震と津波もそうですが、どんな備えをしていても、災害を防ぎきることはできないものと思います。でも、そこに原発事故のような、明らかな人災が関わってくると、いたたまれないなと思います。自然を軽視したために失われた命がたくさんあると思います。軽視というか、そもそも見てもいない、というのが最近の世の中かもしれません。これは危険だと思います。
 誰も、自然の仕組みから逃れることはできません。どこまでいこうと、何をしようと、その仕組みの中にいます。こうすればこうなる、こうしなければこうならない、というようなこと。ものすごく多くの要因が絡み合っているから単純な話ではないし、物事がよく見える目も持っていない僕が言うのはあまり説得力がありませんが、その仕組みから外れているものを僕はこれまで見たことがありません。人も、野菜も、動物も、あらゆるものも。
 
ケニアよりジャンボ!
 先週金曜日(11日)に、「茶房 読書の森」というところで、「ケニアよりジャンボ!」という催しに参加してきました。ケニア最大のスラム、キベラスラムで「マゴソスクール」(現在約600人の生徒)という学校をつくり、活動している早川千晶さんと、ケニア伝統の太鼓叩きで、マゴソスクールのCDづくりなどもしている大西匡哉さんによる音楽とお話の会でした。2人ともケニア在住。これはアフリカンダンスの友人づてにまわってきて知りました。このイベントはいつになく、なんだかはっきりと「行きたい」と思ったので行ってきました。18時から開始だったので、夜はあまり具合の良くないゆっこさんは行かず、僕と娘たち2人で行ってきました。とてもいいイベントでした。下の子、花野ちゃん(3歳)とトイレに行って帰ってきたら、葉菜ちゃん(6歳)がステージの一員として楽器を奏でていてびっくりしました(笑)。他の子どもたちもたくさんいて、娘たちも楽しんでいました。
 僕の知識レベルは「スラムって何?」くらいなものなので、聞く話がどれも新鮮だし、わからないこともたくさんありました。けどたぶん、知っておく、心に留めておく必要があることは、世界中に貧しい人たちがいるということと、そういう人たちを作り出しているのは僕ら先進国の人間だということ。アフリカ大陸はかつて、様々な民族がダイナミックに移動しながら、自然の中で暮らしていたそうです。それが、欧米が資源を狙って大陸を取り合い、早川さんの言葉を借りれば現在は「切り刻まれた」状態。資源を求める大開発が現在もすごいスピードで進んでいるそうです。アフリカ大陸は石油も石炭も、金もダイヤモンドも、レアメタルも出るそうです。それを掘るために、自然の中の人たちの暮らしを奪っているのです。僕が今こうして文章を書いているパソコンにも何かしら、そういうところから来たものが使われているのだろうし、自動車、トラクターの燃料、今使っている電気を作るために燃やされた石炭、そういうものも、アフリカ大陸から来ているのかもしれません。そうでないとしても、どこかの環境を壊し、誰かの生活を奪って、その土地から奪ってきたもので成り立っていることには違いありません。
 早川さんがケニアに移住して30年近く。この間に、スラムの人はどんどん増え続けているそうです。状況は良くなるどころか、悪化の一途。僕らもその原因の一つです。生活の中で何を選ぶか、どういう生活をするか、日々の一つ一つの行動が、遠い国の誰かの幸せに係わっています。アメリカの戦争に参加できるようにする法案が、今にも参議院を通りそうな夜ですが、全くやるべきことを間違えていると思います。僕らは誰かを苦しめる力も、幸せにする力も、どちらも持っています。選びましょう。今。  健
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ひとつぶ便り 220号

今日もお越しいただきありがとうございます。先週のひとつぶ便りです。どうぞ。

ひとつぶ便り 220号(2015年9月11日便)


 いつもありがとうございます。ここのところ雨続きの毎日です。僕らの住んでいるこの地域は全国的に見ても日照率がとても高い場所で、一年を通して良く晴れているのですが、今年はなかなか雨が多い印象です。4月前半の長雨があり、梅雨もしっかり降り、今は台風と秋雨。例年は雨が無くて畑がカラカラになってしまう、ということが多いのですが、今年はここまで日照りで悩まされてはいなくてその代わり、長雨と日照不足にやられています。まだまだ晴れればある程度暑くなる気候なのに、雨ばかりなのでなかなか気温も上がりません。そんなわけで野菜の収穫量も質も、万全というわけではありませんが、今あるベストのものを送らせていただきます。
 雨の合間に、白菜の定植、野沢菜の種まきなど、やれることをやっています。今日(9日)午後は台風が過ぎ去ったあと、久々の晴れ!暑いと感じるのも久しぶりでした。

近況いろいろ
 先週、上の子、葉菜(はな)ちゃん(6歳)が幼稚園で流行っている風邪をもらってきて、熱を出したりしていましたが数日ですっきり治りました。花野(かや)ちゃん(3歳)には今回はうつらず、僕とゆっこさんにはうつって、まだ少し風邪気味です。天気も天気だし、気分も体も低調な一週間でした。
 ゆっこさんは妊娠5か月に突入し、だいぶお腹も大きくなってきました。もうすぐ生まれる、という段階でもあまりお腹が目立たないような人もいますが、ゆっこさんはそうではなくて早い段階からかなり目立つ方。毎回大きくなります。つわりはもう終わっていい頃のようですが、まだあります。ピーク時よりはかなり好調であるものの、未だお米はほとんど食べられません。そして、少し前まではイタリアンを好んで食べていましたが少し変わってきて、最近はベトナム料理とかタイ料理が食べたい、と言っています。ニョクマムとか、パクチーとか、タイカレーとか、そういう味がいいらしいです。ヨーロッパからアジアに来ましたね。辛い味付けがいいし、お米はダメということもあって、最近は僕と子ども達とは別メニューで、辛い麺(フォーとか)などを料理して食べています。お腹の子は順調のようです。現在20センチぐらいかな。最初の頃と比べるとだいぶ大きくなったなと感じます。

 葉菜ちゃんは最近は絵本ではない童話も、読んで聞かせてもらうのが好きになってきました。簡単な絵本なら自力で、割とすらすらと読めます。少し前から最近まで、実家から僕の両親が持ってきてくれたリンドグレーンの『ピッピ 南の島へ』を読んでいました。「ピッピ」のシリーズは3作あるそうですが、たまたま実家からうちに持ち込まれたのが3作目のこの作品。僕もゆっこさんも葉菜ちゃんと一緒に、とても楽しく読みました。このシリーズはリンドグレーンさんが自分の子どもの為に作って聞かせた話だそうで、すごくコミカルで、終始おもしろいですが、何より根底に流れるピッピの深い愛情と優しさが、心を温めてくれます。さかのぼって1作目と2作目も読んでみようと思います。今日図書館で1作目『長くつ下のピッピ』を借りてきました。
 『ピッピ 南の島へ』のあとはミヒャエル・エンデの『モモ』を読んでいます。葉菜ちゃんにはまだ少し難しいかと思いますが、しっかり聞いています。もう後半に入っています。僕はこれ、初めて読んだのですが、ものすごくおもしろくて、早く続きが読みたいと思って、葉菜ちゃんと一緒に読む前に読んでしまいました。久々に本を一気読みしました。上に、「葉菜ちゃんにはまだ難しいか」とか書きましたが、この内容をしっかり理解できるには、僕の場合は数年前くらいまで待たなくてはいけなかったような気がします。これは「児童文学」に分類されるのだと思いますが、例えば僕が大学生の時でも、この内容をしっかり理解できなかったと思います。こんなに、楽しめなかったと思います。まぁ、小学生ぐらいの方がむしろ分かる子がいるのかもしれないなとも思います。僕はその頃読んだとしてもたぶんわからなかったけど。作者の大切なもの、書きたいものがくっきりと見えるお話です。
 あと最近は、絵本だと「バムとケロ」のシリーズが我が家で流行中。僕もとても好きです。バムとケロと仲間たちの楽しい日常。素敵です。
 
 また、葉菜ちゃんは最近ピアノをよく弾いて遊んでいます。うちは電子ピアノがあるのでそれを弾いています。「猫ふんじゃった」はだいぶスムーズに弾けるようになりました。他にも簡単な曲を色々と弾いています。右手だけとかで。とにかくまぁ楽しんでくれたらいいなと思います。ちなみに僕も一応幼稚園からピアノをやっていたので、一応弾けます。あまり熱心ではなかったので上手には弾けませんが、最近はときどき弾いています。楽しいです。幼い日にやった「ブルグミュラー」を引っ張り出して弾いてみたりしていますが、曲がきれいで素敵です。

隠せないもの
 絵本や小説、音楽、絵、食、などなど「表現」にも様々な分野がありますが、そのどれもが、ごまかしの効かないものだと思います。それを描いた人、表現した人の、良いところも悪いところも全て出てしまうものだと思います。その人の深い部分の喜びも苦しさも、作品に表れてしまいます。それはなんというか、「安心していい」ことの一つだと思っています。例えば僕が書くこの文章も同様で、僕の良さも悪さも、喜びも不安も、全て出ているものと思います。ネガティブな感情、差別意識、暴力性など自分がダメだと思っている部分、隠したいと思っていることはたくさんありますが、それは表面的な技術などで隠しきれるものではありません。また、「隠そう」と思うのならその気持ちがそのまま表れるだけのこと。逆に、自分では普段気が付いていなかったり、照れくさくて隠そうとしたりしている優しさとか愛情とかそういう良い部分も、いかなる文章にも絵にも、表れてくるものだと思います。とても単純な絵を真似して描こうと思ったとしても、完全に同じものを描くことってできないんですよね。例えば「ピースマーク」を描いてください、といって、同じ絵をみんなで描いたとしても、その表情は全く違うものになるはず。隠そうとして隠せるものではなく、表そうとしなくても表れるものだから、隠すこと、表すことを意識しなくていいんだなと、割とここ数年で思うようになりました。まぁ、僕の場合は特に何をしていても感情とかバレバレな方なのでそもそも「隠す気があったのか」とか言われそうですが。
 日常において、僕よりも遥かに隠すのが上手な人だとしても、文章や絵、音楽、何らかの「表現」を通せば、隠しているものは必ず見えてきます。そこに触れること、楽しいです。           健

ひとつぶ便り 219号

今日もお越しいただきありがとうございます。雨ですね~。

先週のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 219号(2015年9月4日便)

 いつもありがとうございます。このところ、晴れ間すらほとんどない日が続いていましたが、今日9月2日、久々に晴れました!晴れればまだ結構暑くて、ほっとします。それでも風は涼しく、すっかり秋の空気です。野菜セットはまだまだ夏の野菜たちです。だいぶ勢いはなくなってきましたが、まだまだ元気。その環境に合わせて、野菜たちはいつでも全力です。子孫を残すために。その営みのどこかの部分を、僕らはいただいています。

差別的な意識
 8月30日は、全国一斉に「安保法案(戦争法案)反対」の行動が行われた日でした。僕らの住む佐久地域でも、デモなどやっていました。今回は一か所に集まる、というより細かく色々な場所で、集まりがあったようです。佐久市だけでも何か所も集まりがあって、参加したい人は近いところに参加できる、割と参加しやすい感じでした。一か所に集中的に集まるのではなく、こういう分散して小さく集まるのもいいなと思います。「一丸となる」とか「一枚岩」とか、そういう感じがいいものとされることも多いですが、それはちょっと違うと思っています。小さい単位でまとまり、それぞれが独立しつつゆるやかにつながる感じ。そんな感じが、健全で優しく、強いものである気がします。土の、団粒構造のように。
 安保法案に、賛成か反対か、だけで区切る線を引こうとする人たちがたくさんいます。僕は反対ですが、ただ、「反対」という分類に入れられ、こっち側とあっち側に分けてしまうのは、違うと思います。賛成の人たちも反対の人たちも、それぞれがそれぞれ、持っている知識が違い、考えが違います。表現する方法、手段などもそれぞれ異なります。僕は「反対」の立場だけど、ただ日常の鬱憤を晴らす為にデモに参加し、口汚く安倍首相たちを罵る反対派の人より、自分の頭で考え、真摯に話す姿勢を持った賛成派の人の方が、共感できることは多い、というようなこともあるわけです。ただの二項対立では行く方向を間違えると思います。たとえ、自分たちの目先の目標を達成したとしても。

 ネットでの書き込み、日常での会話、そういう中で、一人ひとりの心の中にある差別意識が見えてきます。性別、年齢、民族、障害、政治、いつでも様々な分野で僕らの多くはある特定の人たちを蔑視したり攻撃したりしています。今回の安保法案のことについても、賛成派は反対派を差別し、反対派は賛成派を差別しています。どちらも、大いにやっています。こういうことを言うのはもちろん全員ではないけど、ごく一部というわけでもないと思います。「反対」を表明すると、「賛成」の人たちの中に「非国民だ」「韓国人だ」「中国人だ」と言って、攻撃を始める人たちがいます。べつに韓国や中国の人に何の悪感情も持っていない人が言ったら差別発言でもなんでもないし、そもそも僕はちょっと意味がわからないですが、この場合は明らかに悪感情のこもった差別発言。そして同様に、「反対」の人たちは安倍首相を指して「人間じゃない」「ネトウヨだ」「精神病だ」とか、やっています。ヘイトスピーチ合戦とでも言うような感じ。これ、やめた方がいいと思います。
誰もがここまで過激に言ったり書いたりするわけではありませんが、程度の差こそあれ、心の中に何の差別意識も持たない人なんて、いないような気がします。僕自身の中にも色濃くあるものもあるし、それは他の人の中にも見えます。そういう意識と、自分の中の不安とか不満とか怒りとか、様々な条件が整って複雑に絡み合って、差別的な行動や言動が生まれてくるものと思います。
日常的に、「悪口」ってあると思います。自分が言うことも、誰かから聞くことも。僕は自分のことで思うのですが、誰かを悪く言おうと思って実行する時の基本は、その人を理解しようとしないこと。その人との直接の対話をせず、その人を良く言う人の意見などを聞かず、自分が差別的な意識を向けている何らかの分類に押し込めて、「あいつはダメだ」と言うわけです。逆に言うと、そうしなければ悪口は言えません。その人を理解しようと努めるなら、その人の人格を攻撃するようなことはたちまちできなくなります。と、僕にとっては口で言うほど簡単ではありませんが、目指すべき方向は理解する、という方向だということははっきりしています。自分の中の、うまく対処できない感情を表に出したいがため、誰かに罪をなすりつけ、非難をする。こういう場合は相手を理解しようとしてしまっては非難をできなくなるから、積極的に「理解しない」という行動をとります。だから、相手を理解する為には、自分の中の、不安や恐怖に、正面から向き合う必要もあります。僕が今までやってきたことだし今もやることがあって、改めたいと思うところです。僕だけではなく、すごく多くの人が似たようなことをやっていると思います。
 
 他の国がどうかはわかりませんが、日本の人は対話が下手なのではないかと思います。意見をぶつけ合うことが苦手というか。多くの人がすごく、対話を恐れていると思います。波風を立てず、同調しているふりをすることが、「平和的」と呼ばれることもあります。でも、例えば言いたいことを言えず、その裏でお互いに恐怖を感じているという状況は、とても危険です。いずれ爆発するか、すごく嫌な感じが続くことでしょう。平和どころではありません。
 それぞれの違いを受け入れる、ということもとても苦手だと思います。「みんな同じだよ」と言う言葉を慰めとして使われることに、違和感とか怒り、恐怖を感じたことはありませんか?実際はみんな、違います。僕が例えば「戦争に反対です」と言えば、多くの人に「共産党」(違うけど)、あるいは「左翼」とかいうレッテルを張られるわけですが、その人たちの指す共産党の人も左翼の人も、それぞれ一人ひとり、考え方も信じるものも、違います。と、今回のお便りの最初の方の話に戻りました。ここはすごく重要だと思います。「右翼」「左翼」「賛成」「反対」、そのそれぞれの中にも様々な考え方があります。個人個人で異なるし、個人の中でだって時と場合によって変化します。誰かをカテゴリー(分類)で呼ぶ時は、よくよく注意しなければいけないと思います。むしろ、そういうふうに誰かを呼ばない方が賢明かもしれません。例えば「男はこういうもの」、「女はこういうもの」、「子どもはこういうもの」、「日本人はこういうもの」、みたいな考えがそこにはあります。ある程度の傾向、というのはあると思いますが、ほとんどの人がそう断言できるほどの経験を持っているわけではないし、突き詰めて探求しているわけでもありません。むしろ探求していたら、言えないことがほとんどだと思います。
 ほとんど全ての人の中に、「こういう人は許してはいけない」という基準があると思いますが、その行動自体は許せなくとも、愛してはいけない人なんていません。「汝の敵を愛せ」という聖書の有名な言葉がありますが、愛そう、理解しようと思った瞬間に、もうその人は敵ではありません。       健

ひとつぶ便り 218号

今日もお越しいただきありがとうございます。今日は久々に晴れました!

先週のひとつぶ便りです。どうぞ。

ひとつぶ便り 218号(2015年8月28日便)
 いつもありがとうございます。すっかり秋ですね。25日は一日ずっと寒くて、ストーブを焚きたいと思うほどでした。涼しいとか肌寒いとかいう表現では生ぬるい感じでした。ただ「寒い」が適切。全く夏の空気を感じなくなってきて、先週まではまだまだたくさんとれるかなと思っていたトマトやズッキーニの勢いが一気に無くなりました。ですが、まだまだ内容は夏の野菜のセットです。お楽しみください。秋の大根などはまだまだ小さいですが現在成長中です。セットの内容も季節と共に徐々に変わっていきます。秋の野菜たちも最高に美味しいので、お楽しみに。

平和
 8月も最後の出荷になりました。平和という言葉は8月だから思い出す、というわけではなく、普段の日常とか農業をする上で、僕らが特に意識している部分です。でも、8月なので、今月は平和というテーマで毎回何か書いています。そうではない部分、たくさんありますが、平和な生活とか、平和な農業がしたいと思っています。世界に溢れる暴力や搾取に加担しないで生きたい。平和を生きたいです。
 世界から戦争を無くすにはどうしたらいいのか、その原因となる恐怖や欠乏を無くすにはどうしたらいいのか、そんなこと、真面目に考えている人も、そういうことを話す場も今の日本には極めて少ないような気がします。この国がもし「平和」を真剣に考えてきた国なのならば、こんなことにはなっていないはず。今もそうですが政府はアメリカの言い成りで何もかもやってきて、気概のある政治家がもしそこに歯向かえば、何かしらのスキャンダルかお金の問題を引っ張ってきて世論を誘導してその人をつぶしてしまいます。アメリカの言い成りになる人だけが、生き残っていきます。小泉さん、安倍さんなどはどうやら完全に言い成りの人たち。今回の、「戦争法案」についてもそうです。アメリカに従うしか道はないと、安倍さんも、多くの政治家も、国民も、思っているのかもしれませんが、そこに道はありません。既に行き止まりです。今すぐ別の道を探すべきです。日本も、それを操るアメリカも。
世界から恐怖と欠乏を無くすことを掲げる国が、本気でそれに取り組んでいたとすればどういうことになるでしょうか。「争いは話し合いで解決するべきだ」と僕らは学校などで教わりますが、実際にどうやって話し合うとか、実生活の中でどうやって何らかの方法を用いていくか、具体的に教わった覚えはありません。平和を本気で考える国だったなら、ここはすごく時間を割くはず。日常のケンカやいじめに、いかに暴力的な手段を用いずに向き合っていくのか、というようなことに。例えばひどいいじめがあったとき、それを聞いたとき、基本的に「いじめっ子の断罪」みたいなことしか、この国の人の多くが考えないように感じます。あるいは「いじめられる方にも問題がある」ということを言い出す人もいます。で、どちらが悪いかとか、どちらも悪いとか、その話だけで終わるのが常。これ、何も解決していない気がするのです。
 何かの問題が起こった時、まずは被害を受けている人がそこから逃げられる場所の確保とか、問題そのものを平和的に解決する方法の探求、そもそもそういう問題(例えばいじめ)が起こらないようにするにはどうしたらいいのか、どのような環境を整えればいいのか、そういうことをもっと具体的に考え、実践していく必要があると思います。もちろんこれは、大人が全くできていないことなので、現状で子どもに教えられるはずもありませんが、学校はこういうことを学ぶ場所であって欲しいなと思います。
 ところが現在政権を握っている安倍さんと自民党の皆さんが「戦争法案」によってしようとしていることは、いじめを解決するどころか、いじめっ子(アメリカ)に全面的に協力するというもの。イラクにおける生物化学兵器のように、無いものを有ると言っていちゃもんをつけ、その国の市民を殺める国と一緒になって、武力を行使しようというもの。現在既に、資金の援助等によって大いに協力しているのだけど、直接的手段でもそれを可能にしようというもの。やるべきことはこういうことではありません。その国の平和の為にすべきことが、その国を攻撃することであるはずがありません。
 日本国憲法の前文には「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」という一文があります。戦争は、この「恐怖と欠乏」を原因とし、さらなる「恐怖と欠乏」をもたらすものだと思います。これを減らす、無くす為に、僕らは全力を尽くさなくてはいけないと、憲法は謳っているわけですが、この国がやっていること、これからやろうとしていることは全く正反対です。日本が平和の為にできることは、本来すごく多いはず。お金と人をそこに使いさせすれば。例えば医療、農業、灌漑、教育など様々な分野で、他の国の恐怖と欠乏を、減らしていくことができるはず。実際に、やっている民間の人たちがたくさんいることと思います。医師の中村哲さんのように。日本が他国にすべきことは武力の行使ではなく、例えば井戸を掘る、水路を建設する、食べ物を届ける、そういうことのはずです。

逃げ場
ところで、内閣府の発表で、9月1日が小中学生や高校生の自殺者が最も多い日だそうです。4月の初めも多いということです。学校は「行かなくてはならない場所」と、たぶんほとんどの子ども達が思っているものと思います。先生も、親も、そう思っているから、「少し休んだっていいんだよ」なんて言い方をする。それが「結局は行かなきゃいけない」というプレッシャーを与えていることに気づかずに。そうではない道があることを知っていて欲しい。辛いなら学校行かなくてもいい。逃げていいことを知っていて欲しい。子どもも、大人も、全ての人に。その逃げ場になりうる人も、場所も、すごく少ないのが現状なのだと思います。小学校の頃にいじめの参謀をしていたという僕の友人(現在は深く反省しています)が言っていた有効ないじめの方法は、「逃げ道をなくす」ということ。この社会に逃げ道がないのなら、僕らは社会にいじめられているということかもしれません。
共にマインドフルネス(「気づき」)の実践をしている友人のだーさん(島田啓介さん)がだいぶ前に、「社会復帰どころか、社会こそ人間に復帰すべきだろう」というタイトルで文章を書いていました。この言い回しが好きです。学校に行かない、仕事がない、例えばそういう人は基本的に、「社会復帰」を促されます。という場合の「社会」は学校とか会社。今の日本は、その「社会」にいるのが当たり前で、そうでなければ復帰「させてあげる」のが良いことだという考えが主流。これ、間違いだと思います。本来、学校、会社が「社会」ではなく、そこから外れた人も含めての、「社会」であるはず。そこに目を向けられるとき、「社会」の範囲は広がり、その性質はより優しく、楽しいものになります。社会こそ人間に復帰させてあげる必要があります。それもまた、恐怖と欠乏を無くす道です。            健

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