ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 251号

お越しいただきありがとうございます。
台風は僕らのあたりはそれほど強烈な感じではなく、雨が続いただけという感じ。それもそれほど強くなく。
やっと雨のターンが終わって、明日からはちょっと晴れが続くかな?

では先週のひとつぶ便りです。


ひとつぶ便り 251号(2016年8月26日便)


 いつもありがとうございます。台風の影響などで、ここのところ雨が多い天気です。今年の夏はだいぶ暑い印象ですが、このところ空気がだいぶ秋めいてきました。台風が来るたびに涼しくなるというのは毎年ある気がします。今(23日夜)なんだかバケツをひっくり返したような雨降ってきました。すごい降ってるなぁ。畑に秋の葉物を播きたい時期ですが、湿りすぎていて耕せないので、なかなかできません。種まきできなくても草刈りその他、やることはいっぱいあります!焦りみたいなものもあるけどまぁ、一つ一つですね。

佐久サブキャンプ
 と、言いつつ21,22日は家族全員で出かけ、アフリカンダンスの仲間たちとキャンプしてきました。当然、仕事しろという声が聞かれるところだと思いますが、子どもたちと共に楽しむ時間は、何より優先したいと思っています。特に、今回の仲間は、自分の子も他人の子もとても大切にしてくれる、とりわけ信頼している人たちなので、葉菜ちゃんたちにとって間違いなくいい時間になると思っていたし、実際そうでした。このキャンプは去年もやりたいねと言っていたもので、今年こそやろうということで実現しました。僕は「サブニュマ(みんなの幸せ、素敵な出会い、何かいいことがあるなどの意味があるギニアのマリンケ族の言葉)」という集まりで踊っていて、これは長野県内や周辺の県に広がる大きなコミュニティですが、僕らの住む東信地区では上田が盛ん。で、佐久でも時々小さく集まっていて、今回のキャンプはその佐久の仲間たちが主です。「佐久サブニュマ」といいます。今回のキャンプはうちの家族以外は大体お母さんと子どもたち、という構成で、大人も子供もそれぞれ10人ちょっと、計20人くらいの規模でした。1日目は朝から雨で、予定変更は色々とありましたが特に問題にもならず、楽しい時間を過ごせました。
場所は僕らの家から1時間ほどのところにある「望月少年自然の家」というところでやりました。1日目も2日目も炊事場にいる時間が結構長くて、僕は主に火の周りで火と遊んでいました。ドラム缶の簡易ピザ釜(置いてあった)でピザ焼いたり、かまどでピタパン焼いたり。冬は毎日薪ストーブを使っているから火には比較的慣れているし、パンも日々焼いているしピザやピタパンも時々焼くので、僕らは生活の延長みたいなものでしたが、それが結構役に立っていてよかったなと思いました。子どもたちは粉をこねたり伸ばしたりしていたら必ず寄ってきて自分たちで作っていました。火の周りも誰かしら子どもがいて、薪を足したりしてくれました。ピザやピタパンを作った小麦粉はうちで育った小麦の粉で、ピザソースもうちで余っていたトマトでゆっこさんが作ったもの。僕らがいつも美味しいと思って食べているいつもの食事ですが、他の家の子どもたちもすごく喜んで、「美味しい!」とたくさん食べてくれて嬉しかったです。大好評!
子どもは0歳から小学校2年生まで、色んな子がいました。うちは3人女の子ですが、他も姉妹が多くて、女子率が高かったです。大人も子どもも含めて、全体の雰囲気がすごく良く感じました。居心地が良かった。基本的に子どもたちは子どもたち同士でずっと遊んでいるし、僕が一緒に遊ぶ時も自分の子どもと接する時間より他の子と接する時間が長かったりして、「自分の子」というのが薄れる感覚がありました。こういうの、子どもにとっても大人にとってもいいことだろうなと思いました。大人にとっては子どもたちみんなが自分の子で、子どもにとっては大人たちみんなが親。そして子どもたち同士はみんな兄弟姉妹。親同士は親しい友人。子どもたちは退屈しないし、親たちはすごく余裕が生まれます。子どもが集まると熱狂的に盛り上がることもよくありますが、今回はそういう感じでもなくすごくいいペースで楽しんでいたように見えました。うちの葉菜ちゃん(小1)も花野ちゃん(4歳)も、楽しそうでした。はるちゃん(6か月)は大人にも子どもたちにもとてもかわいがってもらっていました。僕ら夫婦も子どもたちも、すごくいい時間が過ごせました。ありがとう子どもたち、仲間たち!

『みずたまのたび』
今日、ゆっこさんが他の用事で出かけたついでに、図書館に寄ってきて、色々借りてきました。花野ちゃんも一緒でした。佐久穂町図書館は1人5冊まで借りられるので、葉菜ちゃんや花野ちゃんは図書館に行けば自分で5冊選んで借ります。たいていは絵本を。花野ちゃんなどは特に、字はまだあまり読めないので絵の感じとか、勘で選ぶこともあって、そんな時は僕らも全く知らなかった絵本との出会いがあります。今日はアンヌ・クロザというスイスの女性作家さんの本を借りてきて、これがとても素敵でした。『みずたまのたび』(アンヌ・クロザさく、こだましおり やく 西村書店)という本。猫が飲んだ水のボウルの底に残った一滴の水(みずたま)が、蒸発して雲の一部となったり、雪の結晶となったり、また「みずたま」になったり、川を流れて海に至り、また空に昇り、という、シンプルで壮大なお話。これ、ただ当たり前に、世界のどこでも、今この場所でも起こっていることをただ書いているだけなんですよね。今この場所で起こっていること全ての素晴らしさ、それが奇跡としか呼べない、ということを教えてくれる絵本です。『ぼくはここで、大きくなった』というのもクロザさん作であるようですが、これもおもしろそうです。ただ事実を見つめていく。それがどれだけ楽しいか、知っている人ですきっと。
僕らの飲む水、その一滴を深く見つめていくのなら、こういうことが見えるのです。僕らの食べるお米一粒を見つめていっても、自分の体の細胞一つを見つめていっても同様です。そこには遥かなる旅路が見える。悠久の歴史も見える。他の全てのものとの関わりも見えます。生と死ということに対する誤解、あるものは他のものから独立して存在しているという誤解はいつでも僕らを苦しめますが、それはどこまでいっても誤解です。理解すれば、いいのだと思います。ただありのままを。
これ、すごく楽しいです。何か一つのものの来た道を、深く見ていく。そこには膨大なものが関わっているのがわかります。膨大というか、全てなんですが。僕らはしばしば自分が他から独立したものだと思いがちですが、例えば太陽が、雨が、土が無ければ生きていません。また、自分や誰か、何かが死ねば0になると思っている人は多いですが、有から無に、無から有になるものなどこの世には一つもありません。僕がいつか命を全うしたとして、この体は何か他の形になって、続いていく。心もまたそうです。そもそもこの体と心は何かの続きであり、何かの表れです。よく、見つめるのなら、何も無くなってなどいません。0から現れたものもありません。僕らの体の中に含まれる一滴の水も、壮大な旅を経てここへ来ました。僕らを構成するあらゆる要素が壮大な旅をしてここへ来て、その旅は常に、今この瞬間も続いています。ありがとう。僕も皆さんも、何もかも奇跡でしかありません。ただ見つめればわかります。健
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ひとつぶ便り 250号

お越しいただきありがとうございます。まだまだ暑いですが、秋の気配も感じます。
ここのところは雨が多いです。

では先週のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 250号(2016年8月19日便)
 いつもありがとうございます。皆さんいかがお過ごしでしょう。
 2週間近く、まとまった雨のない日が続いていて、畑がかなり乾き気味でしたが、15日午後と、これを書いている16日の夜に少し降って、結構潤ってくれました。涼しくて快適な夜です。
14日から17日の日程で、ゆっこさんと娘たちが山形(ゆっこさんの母の実家、祖母の家)に遊びにいっています。ゆっこさんは小さい時から夏休みと言えば山形へ行っていたらしく、今回も「夏休みは山形!」という気分になったようで、出かけていきました。去年、彼女はつわりがひどくて自分から出かけるなんてことはほとんどなかったので、今年のアクティブさに驚きます。ただ妊娠前に戻ったというよりもアクティブな感じがしますが。今年は、はるちゃん(現在生後6か月)がいるので、畑仕事はほとんどできない→仕事しないから出かけても同じ、というような発想により、自由に出かけています。僕が一緒のことも多いですが、今回はそういうわけにはいかないので、4人で出かけていきました。特に大きな問題もなく無事着いたようで、よかったです。トイレとか色々、途中で止まることも多く、ここから7時間以上かかって到着したようです。ゆっこさんの実家は兵庫県なので、そちらも7時間くらいかかります。そちらも一人の運転で何度も行っているので、時間的にはある程度慣れたものでしょうか。
 僕は一時的に一人暮らしですが、まぁいつも通り畑に出て、ご飯食べて、生活しています。夕方頃の家の中の静けさに、驚きます。夜はみんな寝てしまうのでいつでも静かですが、夕方に家族が揃っていないことは珍しいので、夕方がこれほど静かなことは普段ありません。時期的に、どこか遠くで花火大会の花火の音が聞こえます。子どもたちがいないと、本当に静かなんですね。まぁたった数日間だし、これはこれで楽しいし、寂しがっているわけではありません(笑)。(17日、みんな無事帰還。みんなの顔見てすごく嬉しいです。)

人の持つ可能性と、平和
 今オリンピックやっているんですね。あのイベントは利権やらお金やら、色々とどす黒いものが渦巻いているのは明らかだし、日本はふつうにナショナリズム(国粋主義)煽っているし、参加することに意義があると言いながら、そもそもお金がなければその競技できないじゃん、お金持ちの国しかその競技の設備整えられないじゃん、というものばかりだし、イベントとしては一切賛同できませんが、選手たちの努力、サポートする人たちがつくる環境、そういうものが揃った時に、どれほどまで人が力を発揮することができるか、ということを見られるのは、わくわくします。可能性の「幅」みたいなものを見られるのは楽しい。まぁオリンピックは一部の競技においては最高峰の大会なのでしょうが、多くの競技(団体の球技等)においてはそこまでレベルが高い大会であるわけではないので、選手たちの技の極み、みたいなものはむしろオリンピック以外の大会やその競技が盛んな国の国内リーグで見られるのですが。
 才能を持つ人が整った環境で最大限に努力することができると、こんなにすごいことができる、というのが、陸上とか水泳とか、数字で見えるものはより見えやすいですね。100メートルを15秒で走ろうが10秒で走ろうが、ほとんどの人にとってどうでもいいことだし、9秒90で走るか9秒80で走るかの違いなんて、もっとどうでもいいことなのだけど、その世界を知る人たちからすれば、そこには恐ろしいほどの差を感じるはず。僕はその、コンマ1秒がどれだけすごいかを知らないので、11秒台で走る人も10秒台も9秒台も、みんな「足の速い人」というくくりで終わってしまいますが、実際そこにはものすごい差があるわけです。これ、例えば、「優しさ」とか「愛情」についても同じようなことだと思うのです。そう単純に対比し、表現することは本来できないことでしょうが、「優しい人」とか「愛情深い人」でくくられるたくさんの人の中にも、陸上で言えば11秒くらいの優しさ、10秒くらいの優しさ、9秒80くらいの優しさを持つ人、みたいに、そこにはすごく大きな「幅」があるのだと思うのです。他の人にはただ、「優しい人」と呼ばれる人の優しさにもたぶん、それだけの深く、広い世界があるのです。
 僕は昔、ほんの少し将棋を頑張っていた時期があって、今も好きでタイトル戦の棋譜ぐらいは見ています。だから、将棋における人間の可能性の幅は、陸上競技よりもよく分かるし、将棋におけるその理解をもって、陸上競技のこともある程度は想像できます。人間には(人間だけではもちろんありませんが)本当に、深く、広く、まばゆいばかりの可能性があります。僕やこれを読んでいる皆さんの体にも、心にも。多くの人がもっとそれを知り、もっともっと信じていいと思います。人は誰しもきっと、もっと優しくなれるし、平和になれます。たぶんほとんどの人が思っている以上に、その道は果てしなく広く、深い。また、それは100メートル走における10秒00か9秒90か、そういうものすごいレベルの話ではなくとも、自己ベストが14秒00の人が13秒90で走れるようになる、というので既にすごい話。周りから見たら何の価値も無いような変化も、よく見てみればすごいことです。ほんの少しずつでも、優しさを育てていきたい、平和になりたい、と思っています。例えば僕の年齢で、今からスポーツのプロを目指す、なんてことは無理だと思いますが、それにしたって少しでもその競技について努力するなら、それだけの成果が出ます。経営能力とか野菜の栽培技術、どんな分野であれそれは同様。誰の中にも、僕の中にも、ものすごい可能性が詰まっています。どの可能性を花開かせるかは、自由。その可能性の幅が、どれほど広いか、深いか見せてくれる、トップアスリートのような存在は、僕をわくわくさせてくれます。

 足が速くなりたければ走り、踊りが上手くなりたければたくさん踊ればいいですが、より平和になりたい、優しくなりたいなら、何をすればいいでしょう。僕が知っている最も有効な方法は、呼吸に気づくこと。そして微笑むこと。それは禅僧ティク・ナット・ハンが教えてくれた仏教のやり方。ブッダが説いた方法。自分の呼吸に、体に、感覚に、心に、自分の中と外で起こる全てに、ただ気づいていく実践。何一つ強制せず、善悪の判定をせず、そのまま認知していく。呼吸が深いなら深い呼吸に、浅いなら浅い呼吸にただ気づく。座っているなら座っていることに、歩いているなら歩いていることに、怒っているなら怒っていることに、気づく。っていうことをひたすらブッダが説くお経、四念処経(四種の<気づき>の確立の経)というのがあります。それはお寺とか僧院の中だけでなく、座禅を組んでいる時だけでなく、日常の全ての場面で実践できるものです。簡単なことではあるけど、簡単でないことはすぐわかります。。
 それが自分の中の平和や世界の平和とどう結びついているのか、聞いただけでは全く分かるものではないでしょうが、効果は絶大です。僕がこの実践に出会っていなかったら僕ら夫婦は早々に離婚していたかも。幸せは、平和は、いつか未来に遠いどこかで手に入るものではなく、今、この場所でこそ得られます。今、呼吸を楽しみ、微笑むことができるかに、自分の、家族の、世界の平和がかかっています。健

ひとつぶ便り 249号

お越しいただきありがとうございます。少し雨が降って、涼しい快適な夜です。

連れ合いが3人の子どもたちを連れて山形(連れ合いの祖母の家)へ遊びにいったので現在僕は一人暮らし中。特に何をするでもなく満喫中。
夜は普段もみんな寝てしまっているから変わらず静かなんですが、夕方頃、子どもたちがいないということはほとんどないので、夕方頃の家の中の静かさに驚きます。
野菜はあふれているけど一人じゃ食べる量にだいぶ限りがありますね。いま家の周りに既に収穫して置いてある野菜(出荷に使わなかった残りのものたち)の量からしたらほんの一部を料理しているだけでも、一人で食べるには極めて多い。今日夕飯作りすぎて食べ過ぎてお腹パンパンでした(笑)。

では、先週のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 249号(2016年8月12日便)

 いつもありがとうございます。暑い日が続いていますね。1週間ほど前は連日、とても強い雨が降りましたが、ここのところは晴天続きでやたらと暑いです。ただ僕らの住んでいるあたりは夜はかなり涼しくなって快適な日も多く、ありがたいです。基本的に熱帯夜はありません。もともと僕は東京の練馬出身で、夏場の特に昼間はかなり空気が悪く、夜は寝られないほど暑いのをずっと経験してきたので、こちらの夏の過ごしやすさのありがたみは良くわかります。これは夜書いていますが、今も快適です。
 すごく暑いので、ナスとかトマトとかインゲンとか、喜んでいるように見えます。どんどん大きくなったり色づいたりしています。採れすぎるぐらい採れています!

夏休み満喫中
 農家はもちろん夏休みなんて言ってられませんが、長女、葉菜ちゃん(小1)はストレスフルな小学校生活からしばし解放されて、夏休みをバッチリ楽しんでいます。去年の5月頃から今年の2月に、はるちゃんが産まれるまでゆっこさんはずっとつわりで苦しんでいたため、どこかへ出かけるどころの話ではありませんでしたが、今年は0歳児を抱えている大変さはあるものの、体も心も問題ないので割と行動的です。7月、8月は各地でお祭りやイベントがあるので、楽しそうなやつがあれば積極的に出かけています。
 7月31~8月8日は、佐久穂町の隣の隣の小諸市にて「旅人の祭り」というのがあって、ちょこちょこ参加してきました。31日にあったサーカスで使った綱渡り用ロープがその後低いところに遊ぶ用として設置されていて、子どもたちが常に誰かしらやっていました。大人も時々やっていて、僕も子どもたちに混じって結構長く練習していました(笑)。低いといっても1メートル弱の高さがあるので、飛び降りるのは結構体にも負担があるし、慣れない感覚なので最初は立つだけでもだいぶ怖かったのですが、練習しているうちにだいぶ進めるようになってきて、端から端までも2回ほど成功しました。サーカスの人たちがやれば簡単そうに見えますが、とんでもないです。あの上に立ってみれば、どれほどの努力に裏打ちされた技なのか、よく分かります。スポーツでもなんでも、当たり前のようにやっているから簡単なんだろうという誤解は常にありがちだと思うし、想像できない部分が大きいのだけど、想像すること、理解することを怠ってはいけないなと思います。例えばもし自分が同じくらい努力したことがあれば、他の分野であっても、同等の努力のことはわかるのだと思います。さて2回成功したのは僕の話で、葉菜ちゃんはもっと上達が早いしたくさん練習もしていたし、綱渡りが上手でものすごく素敵なおじさん(名前もよくわからない)が色々コツも教えてくれて、最終的にはすいすい往復できるほどになっていました。お見事。まぁ、上手くなったということより、とても楽しそうだった、ということの方が遥かに重要だと思います。自分の体や心への理解を深めるような遊びの持つ楽しさは、思考をただ停止させるような画面を見ながらやるゲーム類とは全く異なるものだと思います。自らを、他人を、自然を理解する、その楽しさをこそ、子どもたちに味わって欲しいなと思います。もちろん、僕ら大人も。

平和な暮らし、平和な日常
 広島、長崎への原爆投下、終戦記念日、8月は戦争や平和について特に考えたい時です。平和は素晴らしく、戦争はいけないもの、というのが日本に生きるほとんどの市民の認識ではないかと思います。でも、その意識を暮らしや日常に引き寄せられる人はすごく少ない気がします。どこかで起こったテロの話、どこかで起こった虐殺やレイプの話を聞いたら、「ひどい人たちがいるものだ」と思うことはあっても、「自分にもそういう要素がある」と思う人はきっと少ない。でも僕たち誰の中にも、暴力、憎しみ、怒り、そういうものの種は必ずあって、その種をどれだけ育てているかで、より暴力的か、それほどでもないか、そして環境によってそれが行動として現れる、というだけの話。差別、搾取、暴力、そういった言葉は僕たちの日常生活に対して使うにはあまり馴染まないように感じるかもしれませんが、実際は差別も搾取も暴力も、日々の暮らしの中に溢れています。例えば女性差別はこの日本の社会においてはもう当たり前すぎて、実はものすごく差別の色は濃いのに、それにほとんど気づいてすらいない場合が多い。その当たり前のようになっている、決して弱くない差別は僕が接するほとんどの人の中にあるのだけど、それが当たり前の社会だから、話題にのぼらせることすら難しい。ちなみに夫婦間が民主的であるかどうか、平等であるかに関しては、僕ら夫婦はかなりの水準だと思います。知っているどの夫婦も、それぞれにそれぞれの魅力があり、どの組み合わせも素敵だと強く思いますが、お互いの意思疎通、理解に関しては、僕らが抜群。と言えるほどの相手に出会えたのは、お互いにすごく、ありがたいことだと思います。言葉では言い表せないほどに。関係においてどちらかが我慢することなく、無理することなく、やっています。夫婦生活を始めたばかりの頃はズタボロだったので、よくこれほどの関係が築けたなと思います。言葉ではうまく言い表せないけどそれは一言で言えば自然のおかげ。僕は暮らし始めの頃はゆっこさんが言っていることがどういうことなのか、すごく理解しづらかったのですが、禅僧ティク・ナット・ハンや仏教のマインドフルネスの実践に助けられ、自然への理解が深まった結果、彼女の話が手に取るようにわかるようになりました。例えば「川の水が高いところから低いところに流れる」というのは「考え方」の話ではありません。「川の水が低いところから高いところに流れる」と思っている人が、どれほどその主張をして、「あなたとは考え方が違う」と言ったところで、高いところから低いところへ流れるという事実は変わらないし、その人はただ誤解しているだけのこと。この例えにおいて、きちんと理解していたのがゆっこさんであり、誤解していたのが僕。簡単に言えばそんな感じ。いや簡単じゃありませんか?だから僕が色々な誤解を突破し、自然を理解するだけでよかった。実際に「川が低いところから高いところへ流れる」と思っている人はたぶんいませんが、そんなレベルの誤解を、色々な分野で僕はしていたし、今もきっとしています。お互い、自然への理解が完全なわけではもちろんないので、そこへの理解が深まれば深まるほど、さらに平和な関係が築けるはず。
 世界は誤解に満ちています。人間が動物や植物より偉いだの、日本人がどこかの国の人より優れているだの、男は女より優れているだの、これは全く自然についての理解がありません。それぞれがそれぞれに依存し、それぞれ変化し続けながらそこにある。それだけのこと。全ての存在に優劣なんてありません。目の前のものを、自分の体を、よく見つめるだけで、それはどこまでも理解できます。
 夫婦関係はそんなわけでだいぶいいですが対葉菜ちゃん、対花野ちゃんに関してはダメダメです。3姉妹それぞれと平和な関係を築いていくために、もっとやるべきことをやっていこうと思います。   健

ひとつぶ便り 248号

お越しいただきありがとうございます。
旅人の祭り、先週末も行ってきました!ミニキャンプみたいな感じで、キャンプ生活も楽しかったし、色んな人のライブとか、パフォーマンスも見られて、家族みんな、満喫しました。僕らはちょこちょこ参加しましたが、イベント自体は8泊9日。大きな事故もトラブルもなく終わったようなので、よかったです。主催の至さん、参加者の皆さん、ありがとう!

では先週のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 248号(2016年8月5日便)

 いつもありがとうございます。8月に入りましたね。暑い日が多いですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。関東甲信地方は7月28日に梅雨明けの発表があったようですが、8月に入っても雨模様の天気の日が多いです。よく降ります。僕らの住んでいるこのあたりはもともと湿度が低く、基本的に乾燥した空気の場所です。ひとつぶ農園は、家の前の畑以外には、畑に水やりできるような装備を持っていないので畑にあるものたちはいつでも雨の恵み待ち。程よく雨が降ってくれると本当に助かります。少し前に植えた第二弾のズッキーニはおかげでスムーズに根が活着できたようだし、先日播いた今年最終のニンジンは、この雨のおかげで割と安定して発芽してきてくれています。
 今シーズン最後のキャベツやブロッコリー、カリフラワーなどの苗の定植、白菜の種まきなど、秋野菜のことも色々とやっています。畑の草がすごいし、畑の準備も雨が多かったりでなかなか進まないところもありますが、気持ちも体もかなり、ゆとりを持ってやっています。
 
はるちゃんもうすぐ6か月!
 2月に生まれた三女、はるちゃんはすくすく成長中です。もうすぐ6か月!だいぶ大きくなりましたがどちらかというと小柄な方らしく、まだまだ赤ちゃんのかわいさが強く感じられるサイズです。言葉のようなこともよく発声しているし、他にも動きなど、色々な方法でコミュニケーションをとれるようになってきました。寝返りもだいぶ上手になり、コロコロ転がっています。あと、仰向けの状態で上方向へ移動するのが得意です。おしめを替えている時に機嫌が悪くて泣いていたりすると、どんどん上へ上へ行ってしまうので困ります(笑)。
 大きな怪我や病気もなく、生まれて半年を元気に過ごすことができました。ありがたいです。本当に。生まれてからの数年は、あらゆる物事を吸収する能力が最も長けた時期だと思います。安心して、愛をたっぷり受けて、育って欲しいなと思います。そのためにも、僕も日々、愛や理解を育てていくことが必要だと感じます。ごまかしは絶対効きません。

祭り!
 夏なのでお祭りシーズンです。佐久周辺でも様々なお祭りが催されているし、7月末には毎年、僕らの住む佐久穂町の隣にある小海町で「祇園祭」が開催されています。このイベントは過去に和太鼓のグループの一員としてゆっこさんも出演していたことがあって、その仲間たちが毎年出ています。今年も太鼓を見て、花火を見てきました。ゆっこさんがこの町で農業研修を始めたのが10年前くらい。その頃からの知り合いの子どもで、当時3歳だった男の子が、今では立派な中学生で、和太鼓を叩いています。「大きくなったなぁ」と、10年の月日を感じていました。僕がこの町に来てから8年ですが、自分も周りの人たちもそれだけ年を重ねています。子どもたちはぐんぐん成長し、大人たちは年をとる。でも子どもは少ないし、働き手の大人たちが年をとれば、農村は維持することが難しくなってきます。農業は50台ぐらいでも「若手」と呼ばれることがあるし、実際に50~60台くらいが支えている部分がすごく大きい。でもその後の世代は農業を継いでいないところも多いから、林業や農業関係の機械が扱えるわけではないし、そもそもそこの町や村に住んでいない人も多いから、状況は深刻になっていきます。東京で暮らしていた頃は想像したこともありませんでしたが、農村部は共同作業によって成り立っている部分が大きいです。僕らの集落はもともとコンパクトだし、空家がほぼ無いので今のところそういった面で困ることは無いですが、あと5年、10年すればどうなるかわからないし、既に苦しい集落もたくさんあると思います。ちなみに僕らの住む柳沢区は、僕ら家族が入ったり、子どもが生まれたりしているので、ここ5年の人口増加率、高齢化率などの項目において佐久穂町の中でも優良地区のようです。10数戸しかない、小さい集落だから一軒の割合が大きい、というだけの話ですが。若い夫婦と子供が増えたらいいな。 
 と、祭りの話でしたか。現在、佐久穂町の隣の隣の小諸市では、「旅人の祭り」というのが開催中。8泊9日でキャンプ生活をしながらサーカスあり、映画あり、ライブあり、なんでもありのアバンギャルドなイベントです。通し券(2000円)を買えば開催期間中出入り自由。主催はうちの台所のリフォームをやってくれた大工の至さん。毎年4月にやっている佐久のアースデイの実行委員長でもあり、僕らもアースデイは実行委員として長野に来た当初から関わっているので、それだけの付き合いがある人です。5人の子の父で、見た目はふつうですが、中身は物凄くすごいです。佐久市望月の「榊祭り」が「信州の奇祭」と銘打っていて、異論はありませんが、こっちの祭りの方がよっぽど奇祭だとは思います。僕らは7月31日のサーカスを見に行き(とても楽しめました!)、そのまま友人の空いているテントを借りて一泊。僕は朝帰ってきましたが、ゆっこさんたち4人はそのまま昼までいて、色々楽しんでいたようです。テントがずらっと並んでいて、色んな人がいて、子どももたくさんいます。お店も出ています。知っている人もたくさんいるし、知らない人が子どもたちと仲良く遊んでくれたりもします。すごくいい環境です。今週末までやっていて、自分たちのテントも張ってきたので、またどこかで行こうと思っています。

僕たちの誤解
 ところで、「差別」ということがすごく、社会にはびこっていると思います。女性に対して、障がい者に対して、外国人に対して、全ての少数派に対して、とにかく優しくない社会だと思います。相模原で起きた事件、あそこまでの行動をとること自体は珍しくとも、犯人の考え方自体は全く珍しいものではないような気がします。社会の意識の反映としか思えません。当たり前に、日常の中に差別があるのを感じます。完全にそれは、僕らの誤解から来るものだし、差別は誤解そのものとも言えます。
 僕らがいつもどういう誤解しているのかと言えば、自分や他の人、物、それが他の全てのものから独立して存在している、というのが大きいかと。自分が自分以外の全てからできていることをはっきり理解するなら、自分が誰かより優れている、なんていう思考は起こり得ません。僕らは食べ物を食べて生きているけど、例えば食べ物がなかったら、食べ物を育てる太陽や雨や土がなかったら、土を育て土そのものにもなる草や虫がいなかったら、動物や微生物がいなかったら、僕も他の人も、ここにはいません。そこにいる小さいものから大きいものまで全てが関わり合ってそこにある。そこに、存在の優劣、みたいなものは、一切感じられません。これがあるからあれがあるし、僕がいるからあなたがいる。あれがなければこれもないし、あなたがいなければ僕もいません。ありがとう。という言葉が出てきました今。   健

ひとつぶ便り 247号

お越しいただきありがとうございます。いつもありがとうございます。8月ですね。

ちょっと遅くなりましたが先週のひとつぶ便りです。


ひとつぶ便り 247号(2016年7月29日便)

 いつもありがとうございます。ここのところ、涼しい風が吹く日が結構あって、秋の風?みたいに感じます。去年の後半から今年に入ってからずっと、気温がだいぶ高い状況が続いていて、夏も暑い、という予想が出ていますが、どうなるでしょうか。暑すぎるのも野菜にとってよくないのですが、まだもう少し暑さが持続して欲しいところ。まぁ元よりこのあたりは8月中旬にはかなり涼しくなってくるのですが。

野菜たち
 インゲン、キュウリなどは例年より元気な感じですが、ズッキーニ、ミニトマトが今年はうちは調子がよろしくありません。ズッキーニもミニトマトも、この時期は毎年採れすぎて困るほど採れるんですが、今年は落ち着いたものです。今日はたくさん入りますが。天候などにもだいぶ左右されますが、まだ付き合いがだいぶ短い畑でやっているので、それも影響しています。今住んでいる家には3年半前に引っ越してきて、この周りで新たに借りたりした畑は、それからの付き合いです。
化学肥料や農薬を使えば基本的に、土は固くなり生き物たちの力は衰え、土はどんどん消耗していきますが、僕らのやっているような農業だと、どんどん土は元気になっていきます。雑草の根が土を耕し、地上に生えた草は小さな生き物たちの住処となったり、枯れてまた土に還ることで土のバランスを調えます。土の中でも外でも虫やみみずが生活することで土を耕し、その糞や死骸もまた土となり、土を豊かにしていきます。何らかの理由で表土をはぎ取ってしまったような畑とか、造成したての畑などは、土が力を得るのに100年とか、もっと長い時間がかかる場合もあるだろうから、そこで農業をやろうと思ったらある程度人為的な土や肥料の投入などが必要になってくると思いますが、幸い今やっている畑はどこもそうではないので、毎年野菜を育てながら、土も順調に育っていってくれていると思います。ちなみに、ひとつぶ農園は肥料としては平飼いの鶏ふん(飼料は非遺伝子組み換え)を使っています。ほぼそれだけ。義父が家(近くの集落)で鶏を飼っていて、最近はそこから鶏ふんを分けてもらってきています。卵も頂いたりするので、お菓子に入れたり料理に使ったり、重宝しています。
基本的に、土の持つ、自然の持つ力に頼りっきりのひとつぶ農園です。

葉菜ちゃん1学期お疲れさま!
長女、葉菜(はな)ちゃんは26日が終業式で、小学校1年生の1学期が終わりました!お疲れさま!
楽しみにしながらも、かなり緊張しながら通っていた4月、5月をくぐり抜けた後は、だいぶ自分の意志で休んだりすることができるようになってきて、力の抜き方を覚えてきたかな、という感じ。僕ら夫婦は、葉菜ちゃん自身が行きたくなかったり、何か他にしたいことがあったり行きたいところがあったりすればどんどん休んでいい、という方針です。こんなことを書くと問題になりそうですがむしろ、無理して通うような場所に通うことはないと思っています。もっと、個人個人が尊重される、楽な環境で、楽しく学べたらいいのになと思います。やりたい時にやりたいだけやれたら、学ぶことは楽しいこと。全国どこもそうでしょうが、かなり過酷な環境だと思います学校って。「無理をする」「我慢する」、ということを乗り越えたら良いものが得られる、という考えが、日本中にまん延していると思います。が、間違いだと思います。そこから生まれるのは苦しみが主かと。自分の体や心を大切にすることは、今の学校における無理や我慢とは、逆のところにある気がします。何よりもまず、自分の体や心を大切にすること、言い換えるなら自分を愛すること、これが何より基本にあって欲しい。自分が自分を大切に思えない人たち同士の、誤った自己犠牲的な精神による助け合いは、結局誰も救っていないという悲しい状況を生み出し続けているように見えます。このあたり、すごく、勘違いが大きいように感じます。
「勉強」って言いますが、これもともと「無理強いする」とか「無理する」って意味の言葉で、学習することにそれが用いられるのは明治以降とか、結構最近のことのようです。「勉強」は、してはいけない気がします。学ぶことは楽しいことだし、楽しくないことは頭にも体にも入っていかないから、そういう「勉強」は、学ぶこととしては完全に無駄になる。そこで覚えるのは主に「無理をすること」だと思います。それが重要、ってすごく多くの人が思っているのかもしれませんが、それは違うと思います。それは幸せになる方向ではないし、学ぶって、もっともっと!すごくいいもののはずです。楽しいことのはず。

クモの巣
今日、家から割と近い畑に、葉菜ちゃんと歩いてズッキーニを採りに行きました。帰りがけに鹿よけの電気柵の、張ってある線と線の間にクモが巣を作っているのを葉菜ちゃんが発見。その仕事ぶりに感心しながら2人で完成まで眺めていました。見ていてすごくおもしろく、楽しかったです。僕らが見たときは既に縦の糸(放射状)は張ってあって、横の糸を張っている最中でした。で、なにか空中を歩くような動作をしているから、どうしてそんなことできるのかなと思ったら、横糸も既に何周か張ってありました。それを足場として伝いながら、その間に糸を足していく。という作業をしていました。と書いても全然わかりませんね(笑)。外側から内側に向かって一周ずつ作っていました。その仕事ぶり自体も、完成した巣も、本当に美しかったです。しかし、僕らが見たときに既に張ってあった部分はどうやって張ったのか、ちょっと想像できません。ちょっと気になる。今ネットで動画を検索もしてみましたが、僕らが見たあたりからのものが多くて、最初の方はわかりません。誰か、クモが巣を作り始めているのを見かけたらその過程を教えてください(笑)。
例えばこういうことに興味を持てば、必要なものは自分の五感と心だけです。自然を探求することには限界もありません。それはどこまでも深く、広く、美しい。自然、それは例えば自分の体だってそうです。植物とか虫とか自分の体、自然のことに興味を持ち、それを探求するとき、お金はほとんどかかりません。遠くまで出かける必要もありません。現代社会は、消費し、消費されることで成り立っているので、例えば虫捕り好きの少年少女は、ポケモンGOで遊ぶ少年少女より望まれない存在です。おかしな話だと思います。目の前に奇跡が広がっているのに、見ようとしない、見せようとしない、そういう社会です。僕もその中の一人だから、よくわかります。現実は恐いもの、逃げるものとして扱われているように思います。テレビ、パソコン、嗜好品、ゲーム、あらゆる力が僕らを現実から遠ざけています。そしてそこには消費があり、お金が発生する。今この瞬間に僕らが満足し、楽しむのなら、必要なくなるものばかりなのです。今、目の前にある奇跡を感じられる目を、耳を、心を育てていけばいいのだと思います。幸せは、いつか、どこかで手に入るものではありません。今、ここにあります。生きましょう。今を。現実を。 健

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