ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 266号

いつもありがとうございます。連続アップ、6本目。
定期便と臨時のお餅便含め、今シーズン最後のお届けのセットのお便りです。
今年もお付き合いいただきありがとうございました。今日という日を大切に、よいお年をお迎えください!!

ひとつぶ便り 266号(2016年12月23日 お餅便)
 いつもありがとうございます。前回、今回はお餅便です。いつもはまだこの時期も取り込んだ大根、白菜、ジャガイモといった貯蔵性の高い野菜や、ハウスの葉物野菜があったりするので、お餅と野菜のセットですが、今年は秋冬野菜がうまく育たなかったため、お餅だけのセットです。
 原材料はうちの田んぼで育ったもち米からできたお米です。今年の4月に種もみを播き苗を育て、5月に田植えをして、毎日水を見て、草をとり、何度も土手草を刈り、10月に稲刈りと天日干し、そして脱穀したお米です。田んぼがあるのは標高1000メートルくらいのところで、割と稲が育つ限界のような場所。それより少し上の方には田んぼがありません。標高が高いとそれだけ水も冷たくなるので、暖かいところからやってきた稲という植物には厳しい環境。なのでこういう場所では量はとれません。味は、食べ慣れているかとか、個人の感覚に依るところが大きいですが、いつもとても美味しいと思って食べています。10か月になったはるちゃんも、お米をもりもりと食べています。お餅も小さくちぎってあげていますが、大好きなようで、まだ口の中にあるうちから要求してくるので少し困ります(笑)。
 
 例えば料理にせよ、パンやお菓子、様々な加工品にせよ、料理をした人や加工した人に比べ、原材料を育てたりした人のことはないがしろにされがちだと思います。小1の葉菜ちゃんは先日学校で「スイートポテトをつくった!」と喜んで帰ってきました。そして実際にそう言っていましたが、「葉菜ちゃんが作ったスイートポテト」という表現は特に世の中的には何一つ問題ないもので、おかしな表現でもなんでもありませんが、僕的には少し引っかかります。その材料たちはどこから来たものなのか、どのような環境でどのような人たちが育てたものなのか、そういう視点が一切欠けているように感じるから。育てた人たち、運ぶ人たちなど様々に働く人々や、太陽、土、雨、風、土の上、中にいる大小様々な無数の生き物たち、鉱物など生きてはいないものたち、地球、宇宙にある様々なものたちのおかげで、料理やお菓子の材料が目の前にあります。僕は、僕が播いて収穫した小麦で、一週間のうち何度もパンをつくって焼いていますが、それを「僕がつくったパン」と言ったら違う気がするのです。小麦を育てることに関して、パンづくりに関して、少しだけよく見れば、僕がそこでやっていることがどれだけ少ないか、小さいかが分かります。野菜やお米を育てることも同様です。
 よく目を開けて見ていくのならば、そこには膨大な過去の歴史と、今ある全てのものたちの関わりが見えてきます。植物も、人を含む動物も皆、他の全てのものがあるから、そこに存在することができます。そうやって見ていけば、僕らがいかに、他の国の人たちに迷惑をかけ、命を脅かしながら生きているかも見えてきます。そうやって一つ一つ、丁寧に見ていくことが大切だと思います。
 現代に生きる僕らはいつでも心が猛スピードで動いているから、まずは立ち止まることが必要です。そして、目の前のものを、よく見つめることが大切だと思います。そこからきっと、やるべきこと、やるべきではないことは自ずと見えてきます。
今年も本当にお世話になりました。ありがとうございます。良いお年をお迎えください。     健
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ひとつぶ便り 265号

いつもありがとうございます。連続アップ、5本目。12月のお餅便のお便りです。
いつもの定期便はA4の紙、2枚分書いていますが、お餅便は1枚にしました。定期便もこれくらいの分量でいいかなとも思うので、来年は1枚にしようかと思っています。2枚書くのは、乗っているときはいいですが、割と大変な時も多いし。

ひとつぶ便り 265号(2016年12月16日 お餅便)
 いつもありがとうございます。今回はお餅をお届けします。4月に種もみを播き苗を育て、田植えして、毎日水を見て、草をとり、何度も土手草を刈り、10月に稲刈りと天日干し、そして脱穀したもち米が材料です。今回このもち米を育てた田んぼは、数年前までは長年ほとんど使われていなかったところで、そういう場所は田んぼに戻すのに色々と大変なことがあります。平らではないから水が均等にのらなかったり、そもそも水がたまらなかったり、耕盤がないからトラクターがはまりやすかったり。田んぼが田んぼとしてあるのはそう簡単なことではないのだと、田んぼを始めて知りました。現在この田んぼもだいぶ田んぼらしくなって、当たり前のように稲が植わり、実ってくれています。本当にありがたいです。
 上に書いたように、今年の4月に種もみを播きましたが、それは去年収穫したお米。そうやって僕らが育てる前は、悠久の歴史の中、すごく多くの誰かが、選び、受け継いできたもの。田んぼ自体も、誰かが拓き、受け継がれてきたもの。田んぼも稲も、今年の4月が始まりではなく、収穫した10月が終わりでもありません。今年とれたお米は、去年や、もっとずっと前からの贈り物だし、来年とれるだろうお米は、過去や現在からの贈り物です。土と付き合う仕事は本来、10年や20年は当たり前のように見通せる目が必要なんだろうなと思います。僕は全然そんなもの持ち合わせてはいないし、子どもの頃からずっと土に触れてきたような人たちにはいつまでも敵わない部分が多いと思いますが、それでも農園を始めた8年くらい前よりは遥かに見えるものが増えています。それは楽しいことで、嬉しいことです。

 11月の24日、ちょうどお野菜定期便の最後の出荷の作業をしている日でしたが、かなり雪が降り、次の朝はマイナス7℃くらいまで冷え込みました。東京でも降ったようですが、僕らの住むあたりでもこの時期に降る量としてはかなり驚く量でした。雪を見たら子ども達は大喜びでした。その後はまた暖かく、雨も降ったりしてすぐ雪は融け、12月に入っても暖かい日が多いですが、ここ2日ほどは急に冷え込み、朝の気温はマイナス10℃くらいまで下がっています。寒いです!12月はそんな時期ではありますが、急に来るのはこたえます。でもまぁすぐ慣れるものですね。ちょっと前までマイナスというだけでひいひい言っていたとしても、人はマイナス10℃の朝を体感すると、マイナス5℃だと「あ、今日はそうでもないね」となります。マイナス15℃の朝を体感すると、マイナス5℃だと「今日はあったかいね」とか言い出す始末です(笑)。2月とか、本当にそうです。
 今年は乾いた木を燃やすことができているので、外がかなり寒くても、家が本当に暖かいです。うちは薪ストーブ一台が唯一の暖房器具ですが、薪ストーブは薪の確保がなかなか大変。今年は1月に大量にもらった、友人の両親宅の建て替えに伴って出た、古い木の家の柱など一軒分の建材があり、それによって生かされています。現地で調達した材料で建て、壊したあともこうして燃やして暖をとり、ゴミとならずきれいに片付く。残った灰も何かと使える。その土地で調達できたものから作られ、使い終わったあともゴミになどならない。それは家でも、田畑でも、あらゆる生活の場面で、少し前まで当たり前にあった、とてもきれいな流れ。自然に沿う衣・食・住は、無駄がなく、美しいです。では、よいお年を!  健


ひとつぶ便り 264号

いつもありがとうございます。更新サボっていたのでまとめてアップ、4本目。
定期便としては今シーズン最後の出荷のお便り。今シーズンもありがとうございました!

ひとつぶ便り 264号(2016年11月25日便)
 いつもありがとうございます。5月からお送りしてきたお野菜セット、今シーズンは今回が最後のお届けです。例年は12月いっぱいか、1月も少し送らせていただくときもありますが、今年は秋冬野菜がうまく育たなかったので、11月で終了となります。今シーズンもひとつぶ農園の野菜をたくさん食べていただいて、ありがとうございました!また来年の5月からも食べていただけたら嬉しいです。
 11月10日に、この時期としてはものすごく強い霜が降りたものの、その後はまただいぶ暖かくなり、ここ2週間くらいは過ごしやすい気候でした。今日(23日)から、だいぶ冷え込んでいます。今夜から明日の朝にかけて雪が降るという予報もあります。
 高熱が一週間ぐらい出ていたり、だいぶ長引いていた僕の風邪ですがもうすっかり良くなって、元気に過ごしています。健康のありがたみを感じています。風邪をひくのも、治るのも、自然の働きの一つであって、それもまたありがたいなと思います。どんな病気や身体の痛みも、生活の中の積もり積もった体や心の負担とか、崩れたバランスとか、そういう何かの表れ。病気や痛みはそれを知らせてくれるサインだったり、バランスを調える作用そのものだったりするのだと思います。

虚構と現実

 現代に生きる僕らは誰も、ものすごい勘違いの世界に生きているような気がします。虚構の世界に生きている。「人は水が無ければ生きていけない」というのは現実だけど、「人はお金がなければ生きていけない」というのは現実ではありません。でもお金が現実のものと思っている人がほとんどで、実際にそれがなければ生きていけない、というような世の中の仕組みが出来上がっています。僕の目の前にあるこのパソコンにせよ、多くの人が持っているスマホや携帯電話にせよ、今この場所にある現実から意識を引き離す道具です。息を吸って、吐いて、僕らは今生きています。心臓はここで動いています。それが、現実のはずなのに、それはほとんどの人にとって、とるに足らない、意識されることのないこと。何十兆もの細胞が生まれては死に、死んでは生まれながら、人が人と呼ぶこの体が作られているのが現実なのに、その事実に触れず、作られた世界に僕らは生きています。それが楽しいと思い込んで。現代の日本人の多くが、自分の命の力も、自然の力も、色々な神様や宗教も信じないのに、血液型や占い、お金に関しては手放しで信じ切る姿勢があまりにもひどいと思います。全く根拠のない血液型による性格分けによって人を簡単に差別、するなんてことはあってはならないことですが、日本では当たり前のように実に多くの人が日常的にやっています。
 ところでクリスマスまで1か月ですが、「サンタさんをいつまで信じてた?」なんて質問があって、これはサンタさんがいないと思っている人が発する言葉ですが、サンタさんを信じる子どもと、お金を信じる大人たちは何か違うのでしょうか。お金はみんなが信じているからお金として存在するもの。サンタさんを信じる子ども達がいるから、プレゼントが届きます。サンタさん、いないんですか?サンタさんがいないというのなら、お金だって存在しないもの、ということになります。というか僕はサンタさんはお金よりはよっぽどリアリティーのあるものだと思います。信頼によって成り立っている点は共通していても、それ以外に何もないお金と違い、サンタさんに関しては実際にいた人がモデルだし、今もいるし。グリーンランドかどこかに。そうサンタさんは、います。
 国だとか国籍だとか国境だとか、そういうのも全部虚構です。日本だとか、日本人だとか、そんなことで誰かを苦しめ、自らが苦しみ、なんてことを繰り返すのは本当におかしなことです。かつて、大陸を広大な範囲、自由に移動しながら生活していたアフリカの民は、欧米の人々に勝手に引かれた「国境線」により、移動を制限され、民族の、命の危機に瀕しています。そこに国境線があるということよりも、例えばそこに木が生えている、ということこそが現実であり、その現実こそ大切にすべきものだと思います。今息をして、こうして生きていること以上に、大切なことはないと思います。


 少しずつ寒くなり、季節は真冬へと向かっています。畑にはまだ、寒さに強い葉ものたちは残っていたりしますが、もう少しすれば全てが凍てつく季節です。そこにある生命の活動はとても遅くなり、小さくなっていきますが、それは決して「終わり」ではありません。冬が終わりの季節であったなら、春は決してやってきません。気温がマイナス20℃になろうと全てが凍る土の上であろうと、動物たちはそれぞれどこかで生き延び、全てが凍る土の中で、小さな生き物たちはどうにか冬を乗り越えます。畑にいる虫たちも、もっと小さい生き物たちも、ずっとずっと、何百年も何千年も、もっと長い間か、そういう季節を乗り越えてきたのでしょう。植物は多くが枯れても種という形で生き延び、地上部は枯れても地下茎は生き延びるものもあり、また麦のように、地上も枯れずに青々としたまま冬を越えていくものもあります。全てが凍てつく世界の中でなお、命は続いています。
 農園を始めた頃、「ひとつぶ農園」という屋号について少し考えていたとき、そこには漠然と「冬」のイメージがありました。種から始まった植物の一年が、種となってまた次の年に続いていく、というのが意識しやすいのが「冬」でした。静かで、少し寂しい感じもして、だけどそこには力強い命の輝きが見えます。冬の空気、冬の土、それもまた好きです。

 厳しい冬を越えてきたのは人もまた同じです。僕らの住むこの場所は、地震や台風などにはなかなか強く、山の斜面に住んでいる僕らは洪水などの心配も少ないですが、寒さは毎年が災害みたいなものです。マイナス15℃を下回ることが、何度もあります。外にずっといれば、命を落とす寒さ。恐ろしいものです。例えばこの地でホームレス生活、というのは無理だと思います。寒いから。そんなこの地の寒い冬ではありますが、薪ストーブと薪と、食料があるので生きていけます。
 今年2月、一年のいちばん寒い時期に産まれたはるちゃんは9が月になりました。よく食べ、よく飲み、よく遊んで、もりもり成長しています。もうだいぶ、「赤ちゃん」という姿から「子ども」へと変化してきています。最近はつかまり立ちが得意です。僕ら夫婦と、葉菜ちゃん(小1)、花野ちゃん(4歳)、そしてはるちゃんの5人家族、おかげ様でみんなで楽しく暮らしています。土、太陽、雨、風、空気、生き物たち、小さな生き物たち、人、僕ら家族は僕ら以外の全てのもののおかげで生きています。ありがとうございます。こんなに素敵な今を、ありがとうございます。                 健

ひとつぶ便り 263号

いつもありがとうございます。あげていなかったお便りをまとめてアップ中です。3本目。
この時は風邪はだいぶ良くなってきた感じ。この時の風邪はすっかり良くなって、今はもう元気です。

ひとつぶ便り 264号(2016年11月18日便)
 いつもありがとうございます。僕はかれこれ一か月くらい、風邪をひいている気がしますが、なかなか手ごわいです。先週は毎日夜になると高熱が出ていました。なかなか辛かった。朝になると下がるので、酒蔵へ行って、また夜になると上がってきて、の繰り返し。あまり悪くなる兆しもありませんでしたが良くなる兆しも見えず、先週の金曜日、土曜日は酒蔵に休みをもらって、だいぶ回復してきたところです。まぁなんか今回の風邪は長い付き合いになったので、それはそれとしてやっていこう、と思ったら割と軽くなってきた感じもあります。そもそもいつが平常で、いつが風邪で、なんて明確に分けられるものでもないし、それはたまりにたまってきた何かの表れであったりもするのだと思います。去年は確かこんな高熱(39℃前後)は出ませんでしたが、その頃かもっと前から体や心に溜まってきた何かとか、日々の何かの滞りとか、そういうもののある程度の清算を、今やっているのかもしれません。高熱が出るとがん細胞がどうとかそういう話もあるし(てきとう)、辛いけど悪い気はしない、みたいな感じの日々です。
 現在、出荷の日には僕は酒蔵の方は午後に休みをもらっていますが、先週はそんなわけで高熱だったので、作業を全てゆっこさんに任せ、僕は家で、はるちゃんを見ていました。9か月になったその人はなかなか活発で、はいはいでどこでも行くし、つかまり立ちもするし、重くなってきたし、見ているといっても体調が悪い中で、それはそれで大変でした(笑)が、とにかくまぁ先週はほぼ出荷作業に関与していません。あと、先週は家のこともほとんどゆっこさんにお任せして、夜はひたすら寝かせてもらいました。ありがたいです。会社(酒蔵)の方は、休んでも代わりが効くし、人数もたくさんいれば一人の重みも少なくなりますが、家ではそういうわけにはいきません。核家族で夫婦の一人働けなかったら、もう一人の負担が大きくなるだけ。畑のことも同じ。今回、家ではできる限り休ませてもらって、本当にありがたいし、助かっています。やっと、家でも動けるようになってきました。体調を崩すと、健康も休養も、共に暮らす人や職場の人などの優しさも、本当にありがたいものだと実感します。

今シーズンもありがとうございました。
 今回が今シーズン最後のお届けとなる方もたくさんおられますが、今シーズンも本当にありがとうございました。お世話になりました。後半はなかなか思うように育たず、お届けできない野菜が多くなってしまったのは残念ですが、5月から、たくさん僕らの畑で育った野菜を食べて頂き、ありがとうございました。皆さんから頂いたお金も、言葉も、全て僕ら家族の一部となっています。ありがとうございます。
 今回もまた葉物!なセットになっていますが、色々とお楽しみください。

新米が美味しい
 他のことを書いていて、稲を脱穀したことをこのお便りで書いていなかったようです。もう1か月くらい前になりますが、天日干ししていた稲たち、無事脱穀を終えました。稲の作業は春からずっと色々とありますが、稲架掛けをして干していたお米を全て鹿に食べられた、というような話も聞いたことがあるので、この脱穀にこぎつけるまでは、気が気ではない部分があります。脱穀は特別な作業です。春から育ててきたお米が、やっと食べられる状態になるのです!
 脱穀が終わった翌々日、近くに住む義父の家にある小さな機械で籾すりをし、玄米を炊いて食べました。これがなんとも美味しかった。そして今日も食べましたが本当に美味しい。新米ってこんなに美味しいものだっけ、と思います。本当に、ありがたいし、嬉しいことです。秋の野菜の収穫は芳しくありませんでしたが、稲はそれほど悪くはなく、一年なんとか食べられるかな?というくらいとれました。田んぼでとれたお米を食べ、畑でとれた野菜や小麦を食べて生きていけるということ、言葉には尽くせないくらいありがたいことです。

子ども達の近況など
 上にも少し書きましたが、三女・はるちゃんは今月で9か月になり、もりもり成長中です。うちの慣例に従い、大きく産まれて小さく育っている感じでしたが、ここへきてどんどん重くなっています。去年の今頃はゆっこさんのお腹の中なんて信じられない!お米や野菜、なんでもよく食べています。母乳もごっくごっくとよく飲んでいます。僕が結構重い風邪をひいていますが、僕以外の家族は特にそれほど問題なさそうで、はるちゃんも含めみんな元気にしています。僕が弱っていただけなのでしょうか。
 長女・葉菜ちゃん(1年生)は近頃、小学校へ通うバスに関する要望が通り、朝家を出る時間がなんと、これまでより1時間20分くらい遅くなりました。結果、今まで家を出ていた時間(6時20分)くらいに起きるようになり、体力的にも気持ち的にもだいぶ楽になった感じです。それ以前よりも楽しそうに学校に行っているようにも見えます。今回の要望は、隣の地区のお母さんたちや、区長たちの協力もあって、小学校(町)が受け入れてくれました。よかったです。それもあってか、次女・花野ちゃんには相変わらず意地悪することも多いですが、仲良く遊んでいることが多くなってきました。学校の都合で子ども達がストレスにさらされ、その子や家族の生活が荒むなんてことはあってはならないことです。
 葉菜ちゃんは素直に自分の感情を表現することにおいて、なかなか他では見ないレベルです。人の目を気にするようでいて、人目をはばからず「嫌だ」と叫んだりするので、そういうところ、すごいなと思うし、いいなと思います。
 花野ちゃん(4歳)はまだ幼稚園などにはいかず、家にいます。はるちゃんのこともよくかまってくれます。今日はゆっこさんが外で仕事をしていて、花野ちゃんも外にいて、家の中で僕とはるちゃんがいたのですが、はるちゃんが泣き出し、僕が抱っこしても泣き止まなかったのですが、そこへ花野ちゃんが登場したら泣き止み、花野ちゃんが「いないいないばあ」などをしたらやたらと笑って、すっかりご機嫌になる、ということがありました。花野ちゃんはこの時、はるちゃんの泣き声を外で聞きつけ、「泣いてるから行ってくる!」と自信満々で駆けつけてくれたそうです。花野ちゃんは、とても優しく素直な心の持ち主だと思うし、明るく、笑顔が最高です。性格としては全く自分とはかけ離れている気がするし、すごく尊敬する部分があるし、見ていてひたすらおもしろく、かわいいです。
 そしてもともと安定感があったにも関わらず毎年安定感を増す連れ合い、ゆっこさんという4人の女性と暮らしている生活はなかなか楽しいです。今という時間を、この場所を、この生活を、もっともっと大切に、生きていきたいなと思います。今シーズンも本当にありがとうございました。      健

ひとつぶ便り 262号

いつもありがとうございます。11月の記事をまとめてアップ中。2本目。
お便りの中にも書きましたがこの時は風邪がひどくてお便りは冒頭部分だけ書き直して後半はそのままです。

ひとつぶ便り 262号(2016年11月11日便)
 いつもありがとうございます。3週間ほど前にひいた風邪がなかなか抜けきらず、最近は連日の高熱が出ています。夜に高熱が出て、朝は下がるし割と元気なので、酒蔵へは勤めに行っているのですが、午後くらいから少しずつ熱が上がってきて、帰ってくると38~9℃の高熱です。そんなこんなで治るかなと思っていましたが4日くらいそんな感じで、なかなか治らないので、お休みをもらった方が良さそうです。このお便りもこれまで期間中は毎週休みなしで書いていましたが、今回は前回と続いて発送の方がいらっしゃらないこともあって、この冒頭の文以外は先週のお便りをそのまま載せることにしました。すみません。熱が上がるのと、気管支がややかゆい感じがする時がありますが、鼻水はそうでもないし、喉も痛くないし、食欲もしっかりあります。こんなに高熱が出るのは久しぶりだと思います。辛いは辛いですが、体が内部から力を発揮してくれるのは嬉しくもあります。自分の中にある「自然の力」を感じる瞬間です。また、充分な水と食べ物と衛生環境が無ければ、僕はこんな風邪であっけなく死ぬのかもしれません。ちょっとした怪我が化膿して、腕を切断しなければいけないこともあるかもしれない。生きていられるこの環境に感謝しています。そして、こういうちょっとした風邪で、命を落とすしかない人、そういう人を増やす仕組みをつくっている張本人である自分たちの行動一つ一つを思います。
 9日の朝は雪もちらつきましたが、雨もあまり降らず、よく晴れているこの頃です。今回も、葉っぱもの中心のセットです。今年はダメになってしまった野菜が色々あり、この時期、いつもならばお届けしていて、今年はない、というものがたくさんあります。秋から冬にかけて、寒くなってくるこの時期の野菜というのはまた格別に美味しいのですが、色々とお届けできないのと、自分たちが食べられないのは本当に残念です。まぁそれでも、葉っぱたちは育ってくれて、元気に生きています。寒さにも当たってより甘く柔らかく、美味しくなっている葉ものたちを、お楽しみください!

続いてきて、続いていくもの

 2月に生まれたはるちゃんは9か月。よく飲み、よく食べ、もりもり成長しています。抱っこするのもどんどん重くなっています。はいはいの移動はとても素早くなり、少し前まで動けなかったなんて忘れそうになります。最近はつかまり立ちも始めて、家の色々、適当な場所を見つけてはつかまり立ちをしています。「いないいないばあ」を覚えて、「いないいない」とこちらがいうと、「ばあ」と返してきます。とてもかわいい(笑)。去年の今頃はまだお腹のなかですもんね。逆子になったり戻ったり、くるくるしていたと思われる時期です。よく生まれてきて、よく育ってくれています。本当に本当に、ありがたいことです。
 僕らは誰も、長い長い歴史があって、ここにいます。僕らが持っているその歴史は、遺伝子上の狭い意味のものだけではありませんが、それだけを追っていったとしても、僕ら一人一人がいかに膨大な歴史の先にいるのかわかります。母が子を産み、その子が育ち母となり子を産み、またその子が母となり子を産み、というのを、ずっと繰り返してきた事実が、今生きている誰の中にもあります。それは、どんな動物も、植物も、虫も、微生物も、同じこと。ずっとずっと、続いてきたもの。続いていくもの。
 誰もが、何もかもが、何かの継続だということ、それはただの事実だけど、人はよく勘違いをするし、現代社会に生きていると、すごく意識しにくいことだと思います。例えば野菜のことで言うと、少し前までは、その土地、その家に伝わる品種、というのが全国各地にありましたが、現在、ふつうに市場に出荷している農家さんたちは皆、買ってきた種を使います。それは主に、大企業が研究し、売っているもの。家庭菜園のレベルでは、種を採り続けているおばあちゃんとかもいるけれど、その次の世代は町に働きに行くしかないような状況では、こうした種が続いていくような状況ではありません。僕らは色々な在来種や固定種と呼ばれる種を好んで使っていますが(大企業の交配種(F1)も使っています)、これも、そういう種が買える種屋さんから買うのが主で、ずっとこの土地で受け継がれてきたもの、というものではありません。大企業が、農薬や化学肥料を使う農業の為、同じ形と大きさに揃える為に研究している野菜の種だって、元(交配種の親世代など)はどこかの農家が採り続け、より良いものに育て続けてきた種のはずです。それも、何かの続きには違いないのだけど、それを意識することはとても難しい。野菜の種は、このあたりではホームセンター、ちょっとした商店、どんなところでも手に入ります。そしてそれを買って家庭菜園をする。これを見ている子ども達は、「種を買ってくる」というところから畑が、農が始まると思うのが自然。そして野菜を収穫したら、終わり。そこには実際、始まりも終わりもないのに、目の前にはそうとしか思えないような光景が広がっています。種を採るのはある程度の技術、知識、そして手間が要るから、買ってきた方が楽な面も大きい。というか、売っている種は一代交配種(F1)が多く、種をとったら次の代でどんなものが出てくるかわからないので(メンデルの法則ってありましたね)、そもそも種を採ることには向きません。というか、種を採ることは想定されていません。僕らは多くの野菜で交配種ではないものを使っているので、その中で技術的に簡単で採りやすいもの(トマト、カボチャなどなど、あと小麦、稲、大豆など)は種をとっています。
 種をまき、育ち、花が咲き、種が実る。それをまたまき、育ち、花が咲き、種が実る。少しずつ、形を変えながら、多様性をたたえながら、それは続いてきました。僕らがそうであるように。でも種たちのそうした継続は、断ち切られつつあります。自分たちが続いているものの中にいる、ということを、少し前まではもっと理解しやすかったのではないかと思います。種に限らず、衣食住、全ての分野において。

 どこまでいっても、僕らは誰かの、何かの続きです。本来はどこかから始まったわけでもどこかで終わるわけでもありません。産道を通り、もしくはお腹を切り、世の中に出てくることは奇跡そのものですが、それが僕ら一人一人の始まりではありません。そして息を引き取る時が、終わりでもない。それは、頭で理解するというよりは、体感することで分かることかもしれません。そしてそれを体感することは、現代社会の中ではとても難しい。続いてきたものを大切にされたら、大量消費、大量生産社会は成り立ちません。だから、大切にしないように仕向けられているし、仕向ける側だって、始まりと終わりの勘違いの世界で生きています。それは、苦しいことです。
 僕は父や母の続きであるし、今日食べた野菜や小麦やお米の続きです。始まりと終わりの線、自分と自分以外の線をひいているのはいつだって自分です。その線は、本当は存在しないものです。それが体感として分かるとき、どうしようもなく楽しいような、嬉しいような、そういう気持ちになるものです。健

ひとつぶ便り 261号 

いつもありがとうございます。11月は前半ずっと、風邪が抜けない感じでなかなか辛かったので、更新サボっててそのままにしてました。もう年末ですがまとめてアップしておきます。まず一つ目。

ひとつぶ便り 261号(2016年11月4日便)
 いつもありがとうございます。皆さんお元気でしょうか。僕は風邪気味です(笑)。はるちゃん(8か月)が先駆けでしたが、続いて僕もゆっこさんもひいています。葉菜ちゃん(小1)、花野ちゃん(4歳)は、割と元気そうです。僕は少し前から風邪っぽくて、やたらとだるく、喉が痛かったのですが、それはよくなりました。と、思ったら今度は微熱が出て、そして下がってきました。季節に体が慣れているところでしょうか。
 10月末に、一度強めの霜がありましたが、そのあとは畑が真っ白になるような霜は降りていません。その時の霜も、見た目的にかなり強いものかと思いましたがまだまだ序の口のようで、本格的に霜が来れば枯れてしまう、ピーマン、ナスなどの木もまだ生きています。日が陰り、風が吹けば凍てつくような寒さですが、日が出ていればまだまだ暖かい日も多いです。少しずつ、季節は冬になり始めています。そしてこの地域はこのあと何段階も「冬」が強まっていきます。マイナス15℃とか、20℃とか、他の地域の人だとなかなか想像できない世界だと思います。まぁ僕も毎年忘れるので、毎年「あぁこれこれ」って思います。暖かい時に冬の寒さを想像するのは難しいし、寒い時に春の暖かさを想像するのも難しいです。でも、3日も続くともう慣れたりもするものだったりもします。僕らは結構すぐ忘れるし、慣れるの
も早い生き物だと思います。良くも、悪くも。
 今回も、葉っぱもの中心のセットです。今年はダメになってしまった野菜が色々あり、この時期、いつもならばお届けしていて、今年はない、というものがたくさんあります。秋から冬にかけて、寒くなってくるこの時期の野菜というのはまた格別に美味しいのですが、色々とお届けできないのと、自分たちが食べられないのは本当に残念です。まぁそれでも、葉っぱたちは育ってくれて、元気に生きています。寒さにも当たってより甘く柔らかく、美味しくなっている葉ものたちを、お楽しみください!

続いてきて、続いていくもの
 2月に生まれたはるちゃんはもうすぐ9か月。よく飲み、よく食べ、もりもり成長しています。抱っこするのもどんどん重くなっています。はいはいの移動はとても素早くなり、少し前まで動けなかったなんて忘れそうになります。最近はつかまり立ちも始めて、家の色々、適当な場所を見つけてはつかまり立ちをしています。「いないいないばあ」を覚えて、「いないいない」とこちらがいうと、「ばあ」と返してきます。とてもかわいい(笑)。去年の今頃はまだお腹のなかですもんね。逆子になったり戻ったり、くるくるしていたと思われる時期です。よく生まれてきて、よく育ってくれています。本当に本当に、ありがたいことです。
 僕らは誰も、長い長い歴史があって、ここにいます。僕らが持っているその歴史は、遺伝子上の狭い意味のものだけではありませんが、それだけを追っていったとしても、僕ら一人一人がいかに膨大な歴史の先にいるのかわかります。母が子を産み、その子が育ち母となり子を産み、またその子が母となり子を産み、というのを、ずっと繰り返してきた事実が、今生きている誰の中にもあります。それは、どんな動物も、植物も、虫も、微生物も、同じこと。ずっとずっと、続いてきたもの。続いていくもの。
 誰もが、何もかもが、何かの継続だということ、それはただの事実だけど、人はよく勘違いをするし、現代社会に生きていると、すごく意識しにくいことだと思います。例えば野菜のことで言うと、少し前までは、その土地、その家に伝わる品種、というのが全国各地にありましたが、現在、ふつうに市場に出荷している農家さんたちは皆、買ってきた種を使います。それは主に、大企業が研究し、売っているもの。家庭菜園のレベルでは、種を採り続けているおばあちゃんとかもいるけれど、その次の世代は町に働きに行くしかないような状況では、こうした種が続いていくような状況ではありません。僕らは色々な在来種や固定種と呼ばれる種を好んで使っていますが(大企業の交配種(F1)も使っています)、これも、そういう種が買える種屋さんから買うのが主で、ずっとこの土地で受け継がれてきたもの、というものではありません。大企業が、農薬や化学肥料を使う農業の為、同じ形と大きさに揃える為に研究している野菜の種だって、元(交配種の親世代など)はどこかの農家が採り続け、より良いものに育て続けてきた種のはずです。それも、何かの続きには違いないのだけど、それを意識することはとても難しい。野菜の種は、このあたりではホームセンター、ちょっとした商店、どんなところでも手に入ります。そしてそれを買って家庭菜園をする。これを見ている子ども達は、「種を買ってくる」というところから畑が、農が始まると思うのが自然。そして野菜を収穫したら、終わり。そこには実際、始まりも終わりもないのに、目の前にはそうとしか思えないような光景が広がっています。種を採るのはある程度の技術、知識、そして手間が要るから、買ってきた方が楽な面も大きい。というか、売っている種は一代交配種(F1)が多く、種をとったら次の代でどんなものが出てくるかわからないので(メンデルの法則ってありましたね)、そもそも種を採ることには向きません。というか、種を採ることは想定されていません。僕らは多くの野菜で交配種ではないものを使っているので、その中で技術的に簡単で採りやすいもの(トマト、カボチャなどなど、あと小麦、稲、大豆など)は種をとっています。
 種をまき、育ち、花が咲き、種が実る。それをまたまき、育ち、花が咲き、種が実る。少しずつ、形を変えながら、多様性をたたえながら、それは続いてきました。僕らがそうであるように。でも種たちのそうした継続は、断ち切られつつあります。自分たちが続いているものの中にいる、ということを、少し前まではもっと理解しやすかったのではないかと思います。種に限らず、衣食住、全ての分野において。

 どこまでいっても、僕らは誰かの、何かの続きです。本来はどこかから始まったわけでもどこかで終わるわけでもありません。産道を通り、もしくはお腹を切り、世の中に出てくることは奇跡そのものですが、それが僕ら一人一人の始まりではありません。そして息を引き取る時が、終わりでもない。それは、頭で理解するというよりは、体感することで分かることかもしれません。そしてそれを体感することは、現代社会の中ではとても難しい。続いてきたものを大切にされたら、大量消費、大量生産社会は成り立ちません。だから、大切にしないように仕向けられているし、仕向ける側だって、始まりと終わりの勘違いの世界で生きています。それは、苦しいことです。
 僕は父や母の続きであるし、今日食べた野菜や小麦やお米の続きです。始まりと終わりの線、自分と自分以外の線をひいているのはいつだって自分です。その線は、本当は存在しないものです。それが体感として分かるとき、どうしようもなく楽しいような、嬉しいような、そういう気持ちになるものです。健

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