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ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 304号

いつもありがとうございます。先々週のお便りです。暑いですねここんとこ。

野菜のまわりの草に応じる作業はとにかく好きで、収穫とかより断然好きです。この回に書いてあるような内容は、果てしなく書けるし、ものすごく多くの書きたい内容の、ごく一部。A4の紙1枚っていう分量は限られた内容しか書けないので、ある程度書き上げたあとは削ったり、書き直したりの作業が結構あります。そんなのも含めて楽しく書いてます。


ひとつぶ便り 304号(2018年6月15日便)
 いつもありがとうございます。一年でいちばん昼間が長い時期なので、必然的に田畑にいる時間も長くなります。この時期は午後7時はまだ明るいので、僕もゆっこさんも大体そのくらいまでは畑にいます。葉菜ちゃん(小3)、花野ちゃん(幼稚園年中)が、はるちゃん(2歳4か月)と遊んで、色々世話もしてくれます。一緒に畑で何かをやったりすることも最近は多いですが、今日(6月13日)は僕は一人で、田んぼで田車を押したり、大豆畑とジャガイモ畑に管理機をかけたり、手で草取りをしていました。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、という状況で、目の前のことがしっかり見えないことも多くありますが、その時の一呼吸を、その時その場所の一歩一歩を大切にすることを心がけて、農作業をしています。今この場所を大切に生きることは、田畑でも家でも、いつでもどこでも何よりも重要なことだと思います。土の上で生きている、その計り知れないありがたさを日々感じています。
梅雨時期で雨も多いですが、雨の日は雨の日でハウスの中のトマトの誘引ひもつけ作業とか、土手草刈りとか、色々仕事はあります。まぁでも、雨の日は気分的に落ち着くし、実際にゆっくりペースで過ごすことが多いです。家族みんなで図書館へ行ったりもします。ところで雨と言えば、野菜も草も様々な葉っぱをつけていますが、その形や質の違いは日の光をいかに受けるかという目的だけでなく、それぞれの植物が雨とどう付き合っているか、ということにも大きく関係しているようです。葉に雨が当たると葉から養分が流れ出ますが、流れ出るのをなるべく防ぐものもいれば、わざと流して根から吸収しやすいようにしているものもいます。葉や茎の形や質によって、それぞれの目的が達成されるようにそれぞれの植物たちが工夫しているようです。葉も茎も根も、それぞれの植物たちがものすごく長い間、積み重ねた経験によってその形があります。その経験と知恵は今日も、変化しながら多様に積み重なっています。
雨が降り、気温が上がれば、野菜も育ちますが野菜以上に草(雑草)たちが勢いを増します。野菜や稲を育てる上で、草たちの存在はとても厄介ですが、その存在なくして土は成り立たず、土が成り立たなければ野菜や稲も育ちません。実際に草に圧倒されて、野菜が育たないこともしばしばありますが、彼らは敵ではありません。草の根が耕す以上のことを、人間はできません。トラクターでいくら耕しても、ふかふかの土はできません。健康な野菜を育てる健康な土を作るのは、草の根や茎や葉や、落ち葉、それを食べたり分解するミミズや虫や微生物などの働き。土は、そこで生きる植物や大小様々な生き物たちの、生きる営みそのもの。土は物質というより生き物。土から草ができ、枯れ、土に還り、またその土が草になる。様々な草、様々な生き物、それが生きたり死んだりすることを、それぞれ深く関わり、依存しながら繰り返している状態、それが、土。畑で土に触れて、そこにいる生き物たちを見ていると、それぞれの生き物たちが他の生き物たちの存在を前提としていることが分かります。花粉を蜂に運んでもらう植物は多く野菜にも多いですが、これなどはまさに、その分かりやすい例。そうした分かりやすいことから分かりにくいことまで、他の種類の生き物にそれぞれが頼り合いながら、生きています。人もまた、他の生き物の命を前提に体も心もできています。それを意識できようとできまいと、僕らは他の生き物とも、土とも、全ての自然と深くつながっています。というか、人もどうであれ、自然の「現れ」の一つです。 健

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ひとつぶ便り 303号

いつもありがとうございます。先々週のお便りをまだアップしてなかったので、します。


田植えのこと書いてありますが、もうずいぶんと前のことのような気がします。一日が長い時期です。

ひとつぶ便り 303号(2018年6月8日便)

 いつもありがとうございます。今日(6日)は一日雨でした。雨でもハウスの中などでやることはたくさんある時期ですが、それでも雨が降ると気分的にかなり落ち着く感じがします。それもあって、今日は友人宅に、生まれて3週間くらいの赤ちゃんを見に行きました。葉菜ちゃん(小3)は小学校に行っていたので、それ以外の4人で行きました。まぁなんとも、かわいいですね。赤ちゃん。この時期はかわいさもすごいですがむしろ神々しさみたいなものも感じます。小さくて、軽いですねぇ。なかなかこのいちばん小さい時期の、こんなに素晴らしい存在に出会えることは貴重な機会で、僕ら夫婦にとっても、花野ちゃん(ようちえん年中)、はるちゃん(2歳4か月)にとってもありがたいことだなと思いました。
 ところで、6月1日は田植えをしました。まず機械(乗用ではなく人も歩きながら使う2条用の田植え機)で植えて、機械でうまく植わらなかったりしたところを、手で植え直します。この植え直し(追い植えといいます)の作業は、暖かい場所だと稲が植わらなかったところはそのぶん隣の苗が大きく育つからいらないと言われるような作業ですが、ここは寒いので、植えたら植えただけとれるような場所のようです。で、その追い植えにもかなりの手間をかけます。機械と合わせて結局、2日半くらいかけて、終わらせました。今年は僕とゆっこさんに加えて葉菜ちゃんと花野ちゃんもだいぶ手伝ってくれて、かなり助かりました。農作業を子どもたちに強制することはありませんが、今年は結構色々、畑にきては手伝ってくれます。家から近くの畑にいて、足音が聞こえてきて、葉菜ちゃんや花野ちゃんが現れて、畑を手伝ったり畑で遊んだりしていくこともあります。今回の田植えも「やりたい!」といって楽しそうにやっていました。はるちゃんは近くに住むゆっこさんの父に預け、4人での作業。楽しかったです。
 と、「田植え」とかいう名前のついた作業は自分の意識の中でも「特別なイベント」とでもいうように特別扱いをしがちで、毎年結構気合いを入れて緊張するような作業なのですが、今回はあまり自分の中でそういう感じではなく、日々の作業の一つとして、日々の生活の一部として、そう気張らず、かといっておろそかにするわけでもなく大切に、作業できた感じがしています。なんだか、いい感じでした。田植えは一年に一度しか使わない機械を使い、一年に一度しかしない作業なので、とか言いながら特別扱いをするわけですが、一年に一度しかしない作業なんて、実際は他にもすごく多い。田植えが終わった翌々日にしたナスの植え付けだって、一年に一度のことです。もっとしっかり見るなら、あらゆる作業が、あらゆる一瞬が、一年に一度どころか、一生に一度のことです。どれが大切でどれが大切じゃないなんていう判断をするなら、一瞬一瞬の中にある生きる喜びを、すごく多く見逃すことになると思います。
また、田植えや稲刈りは、直接的で、誰が見ても何をしているかわかりやすい作業ですが、それを支えているのは間接的な、やっている人たちしかわからないような、人目にふれないような数多くの名もなき作業たちです。田植えをすることと、そのあと苗箱を洗うことは、どちらも価値に差なんてありません。どちらも大切。田植えは確かに重要な作業ですが、その前にも後にもたくさんの作業があって、しっかりお米が稔るかは、そういう一つ一つの作業の積み重ねにかかっています。なかなかできてはいないけど、目の前のこと一つ一つ、何より今この瞬間を、もっと大切に生きたいと思っています。    健

ひとつぶ便り 302号

いつもありがとうございます。先週のひとつぶ便りです。
先週の出荷が終わり、そのあとは田植えやらなんやらいろいろやっています。

機械についてかなり否定的な内容ですが、べつにそれが嫌いとかそういうのではありません。
田植えも機械を使いますが(かなり手でも植えます)、田植え機とか、バインダーとか、稲関係の機械はほんとに
独創的なアイディアが詰まっていると思うし、特に今使っている「みのる式」の田植え機は、
考えた人ほんとに天才だと思います。機械の中でいちいちピタゴラスイッチみたいなことをやりながら、稲が植わっていきます。
エンジンという一つの動力で、いくつもの異なる仕組みを動かし、稲が植わっていく。すごいなぁと思います。
石油を使うという重大な問題は常に付きまといますが、自分の発想がいかに貧困であるかと、自分の見解の狭さを、
こういう独創的な機械はまざまざと見せてくれます。
自分がここまでしかできない、と思っていることなど、ただの勘違いだと気づかされます。
もうちょっといける、とかそんな範囲ではなく、世界は自分が思っているより遥かに広い、
ということを知るその瞬間はすごく嬉しいです。

あと足踏み脱穀機とか、唐箕とか、そういうのも機械ですが、それも本当にすごい発想だなと思うし、
何よりその場でとれる材料で作れるとか、人力で動くとか、そういう点でも最高です。
稲とか麦に使うハーベスター(脱穀機)という機械はちなみに、足踏み脱穀機、ふるい、唐箕を組み合わせてエンジンで
動くようにしたような機械で、発想自体は何ら新しくはないなと思うし、その人力機械たちの発想が、本当に優秀なんだろうなと思います。
石油とか電気とか、世界のどこかの誰かを犠牲にする大きなエネルギーを使わないという縛りがあったなら、
人はもっともっとその発想力を活かせているのではないかと思うし、わくわくするような人力の機械とか、
きっともっとあるのだろうな思います。かつてあって、今は失われた農具とかも、たくさんあるはず。
地域固有とか、その家だけのアイディア農具とか、昔は絶対もっとあったんですよね。
鍛冶屋が村に何件もある、とかだったのだから。

では前置きが長くなったけど、先週のひとつぶ便りです。


ひとつぶ便り 302号(2018年6月1日便)

 いつもありがとうございます。今日(5月30日)は一日雨模様でしたが、午前中はかなり小雨だったので、畑にカボチャの苗を植え付けたあと、田んぼの手直しをして、午後は家の前のハウスでミニトマトの植え付けをしていました。毎年このハウスでは3月から色々な野菜たちの苗や葉物野菜も少し育てますが、この時期になると片づけて、そのあと主にミニトマトの苗を植えて育てます。今日は友人が野菜セットを受け取りに来たついでにミニトマトの植え付けを手伝ってくれて、ゆっこさんと僕と3人で、楽しく作業していました。外は雨だったので、うちの3姉妹とその友人の子は家の中でわいわいやっていました。昨日は田んぼの代かきや畑を耕すのにほぼ一日トラクターに乗っていて、それが嫌いとかいうこともありませんが、今日は手と農具の作業ばかりで、こっちのが断然好きだなと体が感じていました。
 農業においても生活においても機械の力は大きいもので、とても便利です。この文章も今パソコンという機械を使って打っているものです。しかし、機械の持つ力や便利さの裏には、常にとてつもなくネガティブな要素が隠れています。基本的に車も農業機械もガソリンや軽油で動きますが、まず石油を使っている時点で、世界中の搾取、差別、戦争や虐殺、そういうものに大きく加担しています。僕らが手にした便利さの陰で、どこかの人々はその資源を得るための過酷な労働にさらされたり、生活を奪われたり、殺し合いをさせられたりしています。エンジンというものの発明は、それ自体ものすごいものだと思いますが、それがこうした構造的な暴力を伴ってしか動かないものである限り、愚かな発明としか言えません。「楽に仕事をしたい」とか思うのは自然なことで、「誰かを楽にしたい」と思うこと自体は素敵な感情だと思います。そういう思いから色々な機械も生まれてきたものと思いますが、そのために犠牲になる人たちのことを、ちっとも考えてこなかったことは確かです。僕らもトラクターや車、家事では洗濯機とか冷蔵庫とか、様々な機械に頼っているわけですが、愚かな発明、愚かな社会の構造の中にいるのを感じるし、それは自分の罪でもあります。それで、そうした便利さを受けてきた側が果たして幸せになっているのか、と思います。機械によって重労働から解放されたと喜んだ多くの農村で、今では高齢化が進んで人手は少なくなり、畑は荒れ果てました。誰かを苦しめて得た解放など、まやかしでしかありません。
また、機械はそうした構造的な暴力だけでなく、直接的にもかなり暴力的だなと思います。大きさに関わらず、機械を使っている近くに子どもは近寄らせないし、一緒に作業することなどは全くできません。今日のように、友達や家族と談笑しながら作業なんてできません。エンジン音が大きいので、鳥や虫や人の声も聞こえません。トラクターに乗っていても、より意識的に、平和的に作業することはやるべきだし、その方向を目指すことは可能で必要ですが、土の中や上で生活する生き物たちに対しても、手足や体を使う作業と比べたらどれだけ気をつけても圧倒的に暴力的です。機械が大きくなればなるほど、やっている人間は楽に作業ができるけど、周りに対してはより乱暴になります。速いスピードで走る車に乗っていたら、虫やヘビを踏んでも気がつかないし、道端に野の花が咲いているのにも気づきません。速ければ速いほうがいい、とこの社会は言っていますが、速いことよりも遅いことの方が、大きいことよりも小さいことの方が、便利なことより不便なことの方が素晴らしいことが数えきれないほどあります。健