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ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 307号

いつもありがとうございます。大雨の直前くらいに書いた文章ですが、このときも暑かったなぁ。

ひとつぶ便り 307号(2018年7月5日便)


 いつもありがとうございます。今日(4日)は曇っていて、弱い雨が降る涼しい一日でしたが、ここ一週間はここまで晴れが続いて、標高の高いこのあたりもかなりの暑さでした。このあたりは昼間の気温は東京などとあまり変わりませんが湿度が低いので、炎天下の中でもまだ動けます。僕は東京の練馬の出身だし、ゆっこさんは兵庫県の川西市出身で、京都に住んでいたこともあるので、そういう場所の暑さがどういうものかもよく知っています。温度が高くても湿度が低いとだいぶ過ごしやすいということを、ここに来て知りました。それと、猛暑の日でも夕方になればだいぶ涼しくなるのが、助かります。
 連日暑くて、僕もゆっこさんもだいぶバテていたし、こうして雲が出て涼しくなれば、だいぶ動きやすくなります。例えば土の中の微生物とか、パンの酵母とか、それぞれに得意とする温度帯があって、その温度だったら活発に活動して増殖するし、ある温度より高くなれば生きていけないし、低かったら活動がゆっくりになる、みたいなことがありますが、人間も全く似たような感じだなと思います。しばしば多くの人たちは人間と自然と切り離して考えたり、人間を他の生き物たちと比べて特別だと考えているように思いますが、人の活動も微生物や動植物と同様、温度と湿度だけで、かなりのことが決まっている気がします。例えば「暑いとビールがよく売れる」とかいう事実からでも、「生き物」としての人間を感じられます。ちょっとした温度、ちょっとした湿度の違いで、自分の心身の調子も、行動も言動も、違ってきます。もちろん気温と湿度だけが僕らを取り巻く環境ではなく、気圧などもすごく感じやすい要素の一つですが、そういった一つ一つの環境の要素に大きく影響されながら、僕らは今日も生きています。また、太陽の光は僕らを生かしているけど、夏の強い日差しは熱射病の原因にもなり、場合によっては命をも奪います。畑に生きる野菜たちや草や虫や微生物たちも、太陽の恵みを受けて生きていますが、直射日光のもとではカエルもヘビもミミズも微生物たちも、生きていくのは困難です。木や草の陰で、彼らは生きます。生きている草の下や、枯れて倒れた草の下にも、たくさんの命を見つけることができます。そこには、どの命も他の命に頼り合いながら生きている姿があります。この社会においてはすごく多くの人が、人間は他の生き物と違って特別なもの、と思っているように思うし、僕自身かつてはそんなふうに思っていたかもしれません。それと、アスファルトで覆われた道と、住宅、マンションばかりが立ち並ぶ中では、自然と自分の関わりを、とても見いだしにくいということもあると思います。でもそんな環境であっても実際は、周りの環境、他の生き物たちと依存しあって、誰の体も心も、そこにあります。そこには、かつて生きていたけどもう生きてはいない、全ての存在の姿もあります。例えばそこにある野菜は、収穫したときか、茹でた時か刻んだ時に、もう花を咲かせたりすることはできなくなるけど、それを食べた人のエネルギーになったり、食べた人の体や心をつくります。僕らが食べた野菜は消滅するわけではなく、違う形となって、続いていきます。そういう命の積み重ねが野菜も人も作っているし、僕らもいずれ、また違う形となって、続いていきます。田畑はそういうことを具体的に見せてくれます。僕らは自然の「現れ」の一つ。野菜やお米や、草や虫たちも、ここにあるパソコンですら、全ての自然の中の、「現れ」の一つ。この心も体も、今書いているこの文章も、他の全てのものと関わり合ってここにあります。  健
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ひとつぶ便り 306号

いつもありがとうございます。久々の更新。だいぶ記事がたまっております。まぁ、もうすぐ寝るので今日はとりあえず2つあげておこうかな。

ひとつぶ便り 306号(2018年6月29日便)
 いつもありがとうございます。いつもはたいてい出荷作業の前日にお便りを書いていますが、今日は当日書いています。現在は収穫してきて大根などを洗い、お昼を食べたあとです。この、木曜日の出荷の作業は大まかに言えば2人で収穫して、袋詰めなどをして、箱詰め、という感じです。それを車で近くのクロネコヤマトさんに夜の7時までに持ち込んで、皆さんのもとに運ばれます。佐久方面には、直接お届けもしています。ゆっこさんは毎回その日にお便りを書くので、そういう作業や色々と事務作業もあります。週によって出す箱数が違うし、野菜の内容も毎週どんどん変わっていくので、例えばただ「収穫」といってもかかる時間も違えばやる作業も違います。手間がかかったり、かからなかったりも色々です。天候によっても作業が大変だったり楽だったり、何かと違います。今日の明け方は強い雨でしたが、そのあとはだいぶ弱まって、お昼過ぎの現在は雨が上がって曇りの状態。曇りの日は動きやすいし、野菜もしなびたりしにくいので、出荷の日に曇りはありがたい感じがします。子どもたちは、葉菜ちゃん(9歳)は小学校へ行き、花野ちゃんは幼稚園に、はるちゃんは近くに住むゆっこさんの父(僕の義父)に見てもらっています。幼稚園が終われば、花野ちゃんも一緒に見てもらっています。子どもたちは喜んで行くし、僕らとしても本当に助かります。葉菜ちゃんは学校から帰ってくるのが4時くらいなので、そのままうちで1人、本を読んでいたり、宿題をやったり、気が向けば「葉菜ちゃん通信」を書いたりします。
 ところで、こうして野菜を育てて売っている僕やゆっこさんは「生産者」と呼ばれることもありますが、この呼び方はものすごく違和感があります。「私が作りました」という文言と共に農家たちの顔写真が並んでいるようなカタログや、直売所も見たことありますが、僕の感覚としては自分が野菜を生んだとか、作ったとか、そんなことはとても言えません。確かに畑で何かを育てるには、そこで働く人たちの多大な労働が伴います。特に、大きな機械、よそから買ってきた肥料を使い、一面にビニールを張り、薬剤を散布しながら行う現在の一般的な農業は、「私が作った」とか「人間が作った」という錯覚を起こしやすい気がします。ひとつぶ農園の畑も、人も大きく関わって、そこにあります。畑には農家だけでなくその周りにある様々な産業に従事する人、そこで採れるものを買う人、遥か異国の地で石油を掘削する人、官僚や政治家、密接なところだけ挙げてもとても挙げきれないほど様々な「人間」が関わっています。そのように、そこには人間の存在もありますが、まず何よりそこには、土があります。虫や草、微生物、土の中、土の上で生き、死に、それぞれが関わり合い、依存しあいながら存在する命の姿があります。空には太陽があり、雲があり、雨が降ってきます。それが、その命たちを支えています。その命たちが、土になり、その営みが土そのものであり、土が野菜を育て、土が野菜そのものになります。野菜を作る、野菜を育てる、それが主に人間によるものだという考え方は、あまりに狭い物の見方だし、本当の現実と大きく異なっています。僕がお便りの中で「僕らが育てた」と書く時、その「僕ら」は、僕とかゆっこさんとか、畑を手伝ってくれた人たちだけを指しているわけではありません。土、虫、草、雲、雨、風、太陽、全ての自然を含めての意味です。この体も心も、そういう自然から、できているもの。「私が作りました」ではなく、野菜やお米に「私が作られました」という方が、遥かに現実に近い気がします。     健

ひとつぶ便り 305号

いつもありがとうございます。先々週のひとつぶ便りです。梅雨明けですってね。

ひとつぶ便り 305号(2018年6月22日便)
 いつもありがとうございます。今日(20日)は1日雨模様で、特に午前中はかなり大降りでした。ゆっこさんは朝から外で少し収穫作業をしていて、僕は田んぼの水を見に行ったりはしましたが、それ以外は特に農作業はしませんでした。ここ一週間は体をたくさん使う作業が多かったのもあって、ちょっと疲れています。今日は次女・花野ちゃんの通う「森のようちえん ちいろば」の5,6月のお誕生会があって、花野ちゃんはもうすぐ6歳の誕生日なので該当の月。ここではどういうわけか、保護者が何かしらその子のために発表する、というのが誕生会の決まりで、うちは長女・葉菜ちゃん(現在小3)の時は、歌を作って歌ったり、誕生のときの紙芝居を作ったりして、花野ちゃんは昨年、誕生したときの絵本を作って読みました。こういう場に向く表現が好きじゃない人にはすごく負担だろうし、そもそもそれぞれの家庭で祝えばいいんだし、それだったら無くてもいいイベントなんじゃないかとも思います。まぁそれはともかく去年もやったし、今年は何にしようかと思ってゆっこさんと相談し、太鼓とダンスとかいう案もありましたが、それより絵本の方が花野ちゃんがきっと喜ぶと思い、今年もまた絵本を作りました。誕生のエピソードは前回やったので、今回は何にしようか直前まで夫婦で相談していましたが、『かやちゃんがいるとうれしいな』という題名の絵本になりました。内容はタイトルの通り、花野ちゃんがただそこにいるだけでうれしい、というシーンを集めたもの。この前、僕が畑で玉ねぎを掘っていたら花野ちゃんが一人で家からやってきて、一緒に掘りました。作業を手伝ってくれることも助かりますが、そんなことよりも、足音が聞こえて、花野ちゃんの姿を見つけたときが、なんとも嬉しくなる瞬間なのです。別に、手伝ってくれようとくれまいと、ただそこにいることが、嬉しいのです。そういう嬉しさを伝えたくて、作った絵本でした。文章はゆっこさんと2人で考えて、絵はゆっこさん。過去のひとつぶ便りの、ゆっこさんイラストからの切り抜きも使いました。最初は全ての部分を描こうと思っていたのですが、もっと小さい頃の花野ちゃんを描こうとしたゆっこさんは、どう書いても今の花野ちゃんを描いてしまうことがわかり、切り抜きという方法をとりました。絵にせよ文章にせよ音楽にせよどんな表現も、その時、その場所でしかとらえられないもの、表せないものですね。このお便りも、明日にはもう今日と同じものは書けません。そもそも誰もが生きられるのは今だけだし、今の自分は今しかいません。
 花野ちゃんは、誰かと遊んだり、一緒にいる喜びを、全身で表現する人です。それはもちろん狙ってやっているわけではないでしょうが、表情や動きで、花野ちゃんが嬉しさを全開で発するので、周りの僕らも、本当に嬉しくなります。いいなぁ。すごいなぁと思います。花野ちゃんも葉菜ちゃんも、お客さんがとにかく好きで、大人でも子供でもうちを誰かが訪問してくれると、とても喜び、大歓迎します。
 例えば学校で、社会で、ものすごく限られた能力を評価される経験を積み、ものすごく限られた価値観の中で「役に立て」というメッセージに苦しんでいる人が多いように感じます。でも子どもも大人も誰もが、何をしていても、たとえ何もできなかったとしても、ただそこにいるだけで、大切にされ、生きていていいんだと強く思います。例えば子どもにそれを伝えられるかは、僕ら大人自身がありのままの自分を大切にしているかどうかにかかっています。自分を大切にすることは、何より重要だと思います。 健