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ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 309号

いつもありがとうございます。全然更新していなくてたまっている記事を徐々にアップしています。まだ7月の記事で、暑いときです。あの時からすれば、すごく涼しくなりましたね。

ひとつぶ便り 309号(2018年7月20日便)

 いつもありがとうございます。ものすごく暑いですね毎日。そしてあの大雨が続いた時から一変して雨が降らない日が続いています。ここは標高1000メートルくらいの比較的涼しい場所ですが、気温は連日30℃を超え、今日(18日)は温度計が35℃を指していたそうです。こんな暑さは災害みたいなものだから、こんな時は色々な仕事、誰もが休んだほうがいいと思いますが、畑の野菜たちや草たちも休んではくれないので、毎日やることはたくさんあって、毎日畑に出ています。しかしまぁ、僕が育った練馬の暑さはこんなものではないし、それに比べればだいぶマシで、動けます。光化学スモッグのようなものも発生しません。あと、夜はだいぶ涼しくもなります。それと、僕らの借りている畑は半日日陰、みたいな場所も多いので、多くの時間、割と爽やかな環境で作業していたりもします。日当たりがいい、というのは良い田畑の条件と言われますが、こんなものすごく暑い時は、同じ畑の中でも日陰の時間が長い場所でしか野菜しか育たないこともあります。太陽の恵みを受けてどんな命も生きていますが、その光と熱は時として、命を奪うものでもあります。直射日光の中で、長時間生きていられる生き物は、そう多くないように思います。人間も、水分が無ければすぐにでも命の危険があります。木があれば、森があれば、そこには陰ができて、湿度も保たれ、多くの生き物が生きられます。土の露出した畑の表面は、それと逆の状態。特に小さな生き物たち、微生物たちにとっては生きることが困難な環境です。畑の上にも草が適度に生えていたり、草を刈って敷いておいたりすれば(草マルチ)、その下で小さな生き物たちが生きられます。小さな生き物たちが生きられるということは、それを食べて生活しているようなものたちも生きられるということ。そこで生きるものたちの力が、土の力。ある程度の規模をやっていると、なかなか全面に草マルチ、なんてことは難しいのですが、もっとやっていきたいし、作業的にもいろいろ工夫したいところです。と、草と小さな生き物たちの話を書いていて今、ふと「境界線」が分からなくなりました。ある程度の期間、厚く敷いておいた草をめくってみると、地面と触れているところは、菌が白く集まっていたりします。それは、どこまでが草で、どこまでが菌で、どこまでが土なのか、と。敷いてある草はあまりめくらないほうが、そこで暮らすものたちにとっていいでしょうが、その下で旺盛に生きる虫たちの姿を見たくなって時々ついめくってしまいます。そこで命が活発に生きているのを見るのは、すごく嬉しい気持ちになります。本来、目に見えないほど菌のようなものたちも、そこではそうやって集まっていて、目に見えたりもします。「土」と呼ばれるものは、ものすごくダイナミックで動的で、生きているもの、死んだもの、鉱物、様々なものの集まりです。草が虫を食べたり、虫が虫を食べたり、そうして小さくなったものを菌が分解したり、そうやって土の一粒となったら今度はまたそれが草を育て草になったり、それを食べた虫になったり、というふうに、すごく狭い範囲だけ見たとしても、そこには時間的にも空間的にも、複雑に絡み合い、頼り合い、折り重なる命たちの姿が見えます。僕ら人間の体も、そういう折り重なる命たちの存在と共にあります。僕らの体も心も食べたものでできています。お米や野菜たちはちょっと前まで草や虫や太陽の光や風や、色々なものだったし、僕の体や心はちょっと前までお米だったし、野菜たちでもありました。「いただきます」を心から本気で、言わずにはいられません。 健
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ひとつぶ便り 308号

いつもありがとうございます。すっかり更新をサボっていて記事はたまりにたまっているので、ちょこちょこ更新していこうと思います。2か月くらい前の記事ですが、このときも豪雨で大変だった時ですね。

ひとつぶ便り 308号(2018年7月13日便)
 いつもありがとうございます。こちらも先週金曜日あたりから雨がたくさん降り、一度やんだ後も毎日どこかの時間帯でかなりの量が降るような一週間です。こちらは災害というほどのことは今のところありませんが、関西方面、ものすごく大変なことになっているようですね。100人とか200人とか、人数では到底表せない、一人一人それぞれの悲しみや苦労がそこにはあるのだと思います。農家として、畑が冠水した農家さんたちのことも思います。今ある農作物がもう採れないだけでものすごく悲惨ですが、土が流されるとか、化学物質が他から流れてくることもあるだろうし、今後も同じようにそこで畑ができるかもわかりません。僕らのところのように、そこまでの雨ではなくても必ず何かの影響はあるし、こう長く雨が続けば全てダメになってしまう野菜(レタスとか)もあります。職業や年齢や性別、他様々な状況があり、それぞれの苦しみをとても想像しきれるものではありませんが、自分の子どもや家族を失うとか、少し想像してみるだけでもものすごく痛ましいです。自分の日常は明日も同じように続くだろうと、きっと日本に生きる大多数の人が思っているだろうし僕も思っているけど、僕らの住むこの島はこうした豪雨や洪水、地震や津波、台風など、大いなる自然の力に常にさらされていて、一瞬で何もかも変わってしまうことも、しばしばあるのですね。日々の暮らし、その一瞬一瞬の大切さを思います。このあたりでは数年前大雪があって、交通網が止まって物流が止まり、スーパーにもコンビニにもものが無くなる、ということがありました(うちはほぼ買い物しませんが)。自然と共に生きる気のないこの社会の仕組みは極めて脆弱で、自然災害と呼ばれる何かが起これば、ほとんどの人が「豊かさ」だと思っているそれが、ただの見せかけだということがわかります。そして、自然を征服し、自分たちは自然を支配しているという勘違いが、自然災害がもたらす被害をさらに深刻なものにしていると思います。どんなにお金をかけてすごい機械を作ろうが高い堤防を築こうが、自然というものそのものを抑えきれるわけがありません。洪水や津波が来たら、「高台へ逃げる」とかそもそも低い場所に家を建てないとか、何百年も前と今で、人ができることはそう変わっていないはず。というか、その土地にあるものと人員だけで衣食住をまかなっていた人々は、今の人間より遥かに生命力が高かったろうし、むしろ今は昔より、できることが大幅に減っているかもしれません。と、書いた後、ネットで目にした記事で、キューバは気象学と防災の連携が素晴らしく、他の国で多く死者が出るハリケーンの直撃を受けても誰も死なない国、というのがありました。日本の気象庁の、雨量などの予測システムもとても優れているもののようですが、それが命を守るために活かされているとは到底思えません。東日本大震災の時の、放射性物質拡散を予測するスピーティというシステムの予測はその後の汚染とほぼ一致したのに、当時の政府がそのデータを避難のために公表しなかったのを思い出します。そのせいで重い被ばくをした人がたくさんいます。豪雨などにしても、情報をきちんと使えるなら、「逃げる」という選択に昔と変わりはなくても、いつ、どこに逃げればいいかは、昔よりも遥かに正確にわかる、ということですが、情報を運用する人間たちが命よりお金を優先している限り、それがあるべき形で使われることはありません。命を大切にする心と行動。それはあまりにもこの社会から欠けているものだし、何よりも必要なものだと思います。  健