ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 155号

いま停電した!そして直った。
暴風のせいかしら。

今日もお越しいただきありがとうございます。更新遅れました。
ちなみに金曜から今日までゆっこ氏が帰省中につき一人暮らし中。うち2日は友達の家にお邪魔してご飯とお酒と楽しませてもらいました。

では今週の、じゃないや。先週のひとつぶだよりでござる。

ひとつぶ便り 155号(2013年11月22日便)
 いつもありがとうございます。今夜(20日)はなんだか暴風が吹き荒れています。僕は出荷の日以外はほぼ毎日酒蔵へ出勤しております。土日は半日であがれる日もあるので、そういうときに農作業しています。この前、僕の両親の助けを借りて(その日だけではないんです)、ようやくジャガイモを掘り終えました。ってこの時期までジャガイモを掘っているなんて他の農家さんからしたら呆れる感じかと思いますが…!ゆっこさんは漬け物やら切り干し大根やら保存食作りに奮闘中。僕が去年(スキー場の仕事)より早く働きに出ているので、農作業の負担もいつもよりゆっこさんに集中してしまっていて、なかなか大変な状況です。雪と寒さと凍結で畑がお休みに入るのはもうすぐそこ。やらなきゃ。色々。

気温と発酵
 発酵といってもお酒づくりのことはもちろんまだまだ全然わかっていないしその話ではなく、パンの話。
 相変わらず2日に1回くらいのペースでパンを焼いています。パン・ド・カンパーニュ(田舎パン)という丸くてそれなりに大きいパン。材料はうちの小麦粉とふすま、海水塩(海の精)、湧き水、というシンプル(だけど贅沢)なものです。酵母を起こした材料も小麦粉と水のみで、現在はパン生地の一部をとっておいて次のパンを作るときにそれを混ぜる、という形でかけ継いでいっています。温度を一定に保つホイロなども無く常温で発酵させているので、気温次第で発酵時間が全然違います。いちばん時間がとれるのが夜なので、夜に焼く、というのが基本です。夏場のいちばん暑い時期は、昼に仕込んで夜焼く、という感じでした。その時期は朝仕込むとちょっと夜には発酵が行き過ぎちゃう感じだったわけですが、そのちょっと後、秋の気配を感じるようになってくれば、朝仕込んで夜焼くのがちょうど良くなってきました。日によって気温が違って、それによって発酵は全然違うので、そこは焼くのをちょっと早くしたり遅くしたりで調節したりして。で、最近はまたやたらと寒くなってきたのでまた一段と発酵はゆっくりになり、今は前日夜仕込んで当日夜焼く、というスケジュールでやっています。インスタントドライイーストとかと比べればそもそもうちのパン生地にいる酵母ちゃんはだいぶ発酵がゆっくりですが、真夏は7時間くらいで一次発酵が終わるものが、現在は24時間前後経たないとちゃんと膨らんできません。ちょっと暖かい部屋とかに置いておいてもせいぜい10度台なので、ゆっくり発酵なわけです。長くやっていても夏場のように生地がダレてこないので、扱いは楽です。時間の管理もよりアバウトでいいのも楽。あと雑菌の繁殖とかから見ても、低温だとより安全なのでしょう。味は、どちらもとても美味しい。どちらが、というのは季節が違えば味の感じ方も違うから比較のしようが無い部分が大きいですが、「低温長時間発酵」をウリにするパン屋さんもあるし、その方が美味しいと主張する人もいます。酵母が最も働きやすい温度(25℃くらい?)とは程遠い温度でゆっくりじっくり生きて増えた酵母たちが美味しいパン生地を醸す。おもしろいものだなぁと思います。人間も冬、活動は鈍る時期ですが、活動が鈍るから悪い時期、というわけでは決してありません。春があって夏があって秋があって冬がある。どれが良いとか悪いとか、そんな話ではないと思います。その時その時をしっかり生きる。それは、きっととても素敵なことです。
 ところで僕はまともな発酵パンを焼けるようになるまで結構時間がかかりました。何故なんだかは今となっては不思議な感じもします。本読みながら作っても全然うまくいかなかったんです。本をちゃんと読む力が無かったということかもしれませんね。その頃からすると、だいぶパンづくりは上達しました。やっていることはそんなに違わないのに、ちょっとしたタイミングとか、力加減とかで、結果が全然違ってきます。野菜を育てることとも似ています。見えるものが最初の頃とは全然違うんですよね。その変化がおもしろい。

普通
 ところで最近「普通」という言葉について考えることがあります。誤解を招くといけないので書いておきますが特に悩んでいるとかそういうわけではありません(笑)。
 「普通」「ふつう」、もともとあまり好きな言葉ではありませんが、自分の中にすごく、この言葉に縛られている部分があることを思います。「ふつう○○するもの」とか、「ふつうに考えておかしい」とか、「ふつう」という言葉を善悪の判断の基準に使わないようにすれば、自分とか他人にかなり寛容に、優しくなれる気がします。何かの行動が「ふつう」だから、「一般的」だから、「常識」だから、という理由で起こされるものならば、間違いが多い気がします。昔はちゃんと理由があったけど、今は慣例だけが残っている、みたいなものもたくさんあると思います。慣例が大事なのではなく、どうしてその慣例ができたのか、という理由の方こそ大事。そしてその理由自体が差別的だったり暴力的だったりする場合もあるかもしれないので、そういうものから来ている慣例とか常識はどんどん破棄していくべきと思います。今いい具体例が思い浮かびませんが良かったら、自分が「ふつう」という言葉を使う状況などを、ちょっと想像してみてください。
 自分の中に「ふつう」という基準を作り、そこから上にいると思えばその人を崇め、下にいると思えば蔑み、外れていると思えば恐れたり笑ったり、というのを自分も他の人たちも、たくさんやっているように見えます。「ふつう」の基準を持っていること自体が悪いことなのではなく、そこに善悪等をくっつけていくことが問題なのかなと思います。
 「ふつう」が、自らの中の良い部分を抑えてしまう場合も多々ありそうです。「あんなにがんばれるなんてふつうじゃない」、「あんなに優しいなんてふつうじゃない」とか言って。「ふつう」に縛られないのならより優しく、より自由に、今を生きられると思います。「ふつう」かどうかではなく、自分はどう思うのか、どうしたいのかを大切にしたいです。健


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