ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 157号

こんばんは。今日もお越しいただきありがとうございます。
秘密保護法、通っちゃいましたね。べつに、政府の言う表向きの理由で考えるのなら、必要ない法律だそうで。やりたいことは他にあるってことですね。原発関係ですか?戦争ですか?福島第一原発のあの事故ですら隠蔽し放題なのに、そういうのにさらにお墨付きを与えるって、もう。今後は、原発事故が起こったことすら隠されるかもしれません。

日本が、「民主的な国家が非民主的国家になった」のではなく、「非民主的国家がさらに非民主的国家になった」ってことだと思います。今までも、散々情報の隠蔽やら人権蹂躙やらやってきた国です。やっている国です。秘密保護法もその一環。より、ひどい段階に入ったのかもしれませんが。

僕もこんなこと書いてたら捕まる日が来るでしょうか。戦時中、反戦の俳句一句詠んだだけで捕まったって話がありました。べつに、運動とか積極的にやってた人じゃなく、ほんと一句書いただけで。「戦争にはならない」とか、どこかで思っている自分もいるけど、たぶん、そんなふうに思っていたら戦争になってしまうような時なのです。明確に、強く、平和を意識し、行動し、実現していかなければいけないのだと思います。

では先週のひとつぶ便りでっす。

ひとつぶ便り 157号(2013年12月6日便)
 いつもありがとうございます。12月になりましたね。毎日寒い日が続いているので、だいぶ寒さにも慣れてきた気がします。「今日はあんまり寒くないな」と思って外を見ると強めの霜が降りていたりして。
現在冬の仕事として働いている酒蔵では、新酒が搾られ始めました。自分が造りに携わったお酒を飲めるのは楽しいなと思います。僕はお米を蒸したり洗ったり(機械でやります)するのが主な仕事の釜場というところで働いています。まだまだわからないこともありますが、まぁとにかく毎日やっています。

平和について

 前回はちょっと戦争について書きましたが、では平和というのはどういうものでしょうか。数年前までは僕の中で平和という言葉はだいぶ曖昧だったり漠然としていたりするものでしたが、最近はもっと具体的に、現実感のあるものとして捉えています。生物の中にある一つの性質として。
 戦ったり、競争したりというのは植物、動物、人間も含めた生き物の中にある性質だと思いますが、相手を思いやったり、受け入れたり、というのもまた、生き物たちが持つ性質だと思います。以下、去年の夏にこのお便りで書いたのですが、また少し書きます。僕らの研修先の織座農園にミレットという猫がいました。彼は僕が初めて会った時にはもうおじいさんで太っていて、好物の海苔のにおいを嗅ぎつけた時以外は基本的に動きの鈍い猫でした。すごく人懐っこくて、みんなに愛されていました。そんな彼が、他の2匹の猫がケンカ(取っ組み合いのぐちゃぐちゃ状態で人間も手が出せない)を始めたとき、機敏に動いてケンカを止める様を、2回見ました。一度は片方に体当たりして2匹を引き離し、もう一度は2匹に近づいて一瞬「どうしようかな」とためらう動きを見せたのち、片方に抱きついて、そのまま抱きかかえて自分も回転して引き離すということをやっていました。突き飛ばした時はその後、その突き飛ばされた方の近くに行って、慰めているようでした。ミレットがどんなことを考えてそういう行動をとっていたのかはわかりませんが、僕は彼のそんな姿を見て、「平和」というのが表面的で不自然なものではなく、具体的で実践的で、自然なものと思えるようになりました。自分の中にも、もともとある性質として。

 と、いうことを書いていて思ったことで、話は少し変わりますが、「平和」という言葉の中に、差別的な要素が含まれている場合が多々ありそう。その差別は戦争にもつながるようなもの。
 例えば僕は戦争の無い世界で暮らしたいと思っているし、それが良いものだと思っていますが、世の中には戦争が必要だとか、戦争がしたい人たちも多くいます。戦争がしたい人たちが多数を占める場で、戦争をしたくない人は、「普通じゃない」とか「馬鹿だ」とか「頭がおかしい」と言われるかもしれません。戦争をしたくない人は、その場から排除されるのが自然な流れ。そうやって、誰かを差別し、見下し、排除するような動きは、「平和」と呼ばれる状態からは程遠いと思います。しかし、そういう動きは、「平和主義者」の中からも、全く同様に起こったりします。つまり、戦争をしたくない、平和を望む人が多数を占める場に、戦争をしたい人がいたら、その人は「普通じゃない」、「馬鹿だ」、「頭がおかしい」と差別され、見下され、排除される、というようなことがあるわけです。その方向に平和があるとは僕は到底思えません。
 自分とは異なる考えと向き合うこと、そのまま受け入れることは、とんでもなく難しいのではと思いますが、その努力は何より大切なものだと思います。この場合で言えば、戦争をしたくない人たちは、戦争をしたい人たちと、どう向き合えばいいのか。どう受け入れればいいのか。う~ん。って思います。「戦争」という行為自体は絶対に受け入れられないけど、その人がどのようにしてそういう考えに至ったのかとか、今のどういうところが気に入らないのかとか聞いたり、自分も言ったりする中で、理解できる部分とか、共感できる部分も出てくるかもしれません。意見を言い合い、ぶつけ合うことは、すごく重要なことだと思います。みんなの意見が同じだったり、同じように見えたり、波風が立たない状態よりも、喧々諤々、お互いの意見をぶつけ合い、時に争っていたり戦っていたりするような状態の方が、「平和」と呼ばれる状態に近いことも多いのではないかと。
それと、「自分が正しくて、相手が間違っている」なんていうことは、どこまでいってもできません。そして、「正しい」と「正しくない」、「普通」と「普通じゃない」なんて基準は、動的すぎて、曖昧すぎて、あまり使っていい言葉では無いような気がします。絶対的な正しさなんてどこにも存在しません。正しいから平和がいいのではなく、それが幸せだと思うから、楽しいと思うから、平和な方向へ進みたいです。

平和の土台
 相手を受け入れることは、自分を受け入れることがしっかり出来て初めて可能になるように思います。自分で自分をありのまま受け入れる力というのを、すごく大切に考えています。例えば「自分○○ができるから、素晴らしい」みたいな自分の肯定の仕方は、ありのままの受け入れとは遠いもの。そうではなく、もっとまるごと受け入れる力があるのです。できるとかできないとか、すごいとかすごくないとか、そういうのは一切関係なく、関係なくというかそういうのも全てひっくるめてまるごと、受け入れる力が。僕はその力こそ最も重要だと思います。その力こそ、平和の土台になる部分ではないかと思います。自分の中にあるその力を信じて日々、大切に水をあげて育てていきましょう。     健

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