ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 235号

まとめて更新、3つめ。今シーズンのラストでーす。今年も読んでいただきありがとうございました。皆さんよいお年をお迎えください。

ひとつぶ便り 235号(2015年12月25日便)

 いつもありがとうございます。先日マイナス10℃くらいまで気温が下がった日がありましたが、そのあとはまた雨が降るなど、暖かめの日が続いています。今夜も雪ではなく雨が降っていて、かなり珍しい気候です。この時期に雨が降るということ自体、僕がこの町にいる8年くらいの中であまり経験がありませんが、今年は12月に何度も雨が降っています。毎年たいていクリスマスの前後は一度雪がどかっと降ります。今年は畑には雪もなく、凍り付いてもいません。色々な年があるものだと思いますが、いつもと極端に違う気候の時があれば、その後も当然何かしら極端な天候がやってくるものなので、来年はより注意が必要かなと思います。とはいえ自分たちのやることはあまり変わらない気もしますが。
 今回が今シーズン最後の出荷となります。今シーズンも本当にありがとうございました。皆さん一人一人がいるおかげで、助けてくれるおかげで僕ら家族は今生きています。僕らのもとから届く野菜たちは、皆さんのおかげで育ったものでもあります。頂いたお金は直接僕ら家族の生活のため、農業の為に使われています。直接的に生かしてもらっています。ありがとうございます。また来シーズンもよろしくお願いします。来年は2月の初めに新しい家族も増える予定で、春の準備がいつもよりだいぶ大変そうですが、例年通り5月の後半には出荷できるようにがんばります。

今週のセット
 先週に引き続き、毎年恒例のお餅便です。僕らの田畑で育ったもち米と大豆(くらかけ豆)と、自然海塩(海の精)が原材料です。お米の表面に傷をつける程度削り、薪の火で蒸して、家庭用の機械でついて、作っています。もち米からお餅を作るのは、水を漬けるところから餅を切るところまで3日でできますが、もち米を育てるのはそれより遥かに長い時間と手間がかかっています。よくよく見ていくのなら、お米の育ったこの1年だけが見えるわけではありません。田んぼは、毎年の積み重ねによって田んぼとしてそこにあります。太陽、土、水、風、生き物たち、生きていないものたち、全ての自然と、受け継がれてきた人間たちの手の働きが見えてきます。農産物、加工品、工業製品、どんなものも、自然からの恵みであることに変わりはありません。一切れのお餅、一枚の紙、どこからでも全ての自然とその恵みを感じることができます。それがそこにあるまでに来た道を、感じることができます。そういうものを感じることは何よりも楽しいことだし、幸せそのものだと思います。僕らはそれぞれが自然の「表れ」。全ての自然と自分との関係を、感じていきましょう。食べることは、その一つの重要な入り口だと思います。

クリスマスと神と仏と
 うちは誰もクリスチャンではありませんが、僕はキリストと呼ばれた彼のファンではあります。まぁそれとはあまり関係なく、ケーキ、シュトーレン、クッキーなどなどでお祝いするのはとても楽しいことなので、この一週間くらいはせっせと色々お菓子製作をしています。
 釜ヶ崎の本田哲郎神父の『聖書を発見する』の中に描かれた聖書とイエスの姿が、僕の今持っている認識の土台です。何年か前に図書館で借りただけで、手元にあるわけではないので内容も正確に覚えてはいませんが、要点はある程度理解しているつもりです。聖書の主要メッセージの一つが「小さくされたもの(抑圧されたもの)と一緒にいなさい」というもの。「神は小さくされたものと共に働く」から。そして、イエスは自分がその「小さくされたもの」だと言い、「私と一緒にいなさい」と言っています。「あのマリア」と地元の人たちから蔑まれる母から、父親不明の子として生まれ、石を切り出したり形を整えたりする石工(いしく・粉塵も吸い込むので長生きできない、過酷な日雇い労働者)として生活していたその人。「血を扱うから」という理由で当時最も忌まれる職業の一つだった漁師たちを従え、社会のおかしさと真っ向から戦い、そして罪人とされて死んでいった人。彼は一貫して「救う側」ではなく「救われる側」にいた人。その立場から、言葉を発し、行動した人。僕はイエスの姿を想像すると、ものすごくエネルギッシュな、人を惹きつけてやまない熱い男、というイメージが浮かんできます。日本ではお釈迦さまと呼ばれることも多いブッダ(目覚めた人)は、富も地位も全て持っていたところから、全てを捨てて乞食(こつじき)になりますが、イエスは初めから最後まで何も持っていません。聖書は世界一のベストセラーだとか言われますが、何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく人の物語は、そう一般的ではないし、輝いているものだと思います。

 「小さくされたものと一緒にいなさい」というメッセージを聞くと僕が必ず思い出すのが大乗仏教の架空のブッダ、阿弥陀仏のこと。特に詳しくもないのですが、阿弥陀仏は「全てのブッダ(目覚めた人)が見捨てた者をも見捨てないで救うブッダ」だそうです。なにか、この文言がイエスを思い描いた時に、浮かんできます。
 自分や他人の中の絶対に許せないと思うような、または「くだらない」と蔑んでいる、考えや言動、行動、習慣、誰しもそういうものがあると思います。自分の内にも外にも、認めたくない、認められない、そもそも見ようとすらしないものが誰しもあると思います。それが、「小さくされたもの」であり、「全てのブッダに見捨てられたもの」。そしてそういうものを抱きしめ、変えていく力もまた、僕ら一人一人の中に確実に備わっています。体験の中で僕もそれは知っています。自分が「悪い」と思う自分の中のある部分を、「いけないもの」として消そうとしたり、力ずくで直そうとしたり、無視しようとしたりすることはいずれも苦しみを増すものです。それは「はい、やって」と言われてすぐできるものではないかもしれませんが、「受け入れる」ということなしに、幸せにはなれません。やってしまった何かの行動が、周りの誰も認めてくれないことだとしても、それがどんなことだとしても、それすら優しい微笑みで包んでくれる存在が、そういう力が、誰の中にもあるはずです。それをもっと、信じていいと思います。それがすごく限定的になっていたり、少なくなっていたりすることはあっても、優しさが全く無い人に出会ったことはありません。そこにある優しさの種を、育てるかどうかを僕らは選べます。もっともっと育てていきたいと思っています。
今しているこの呼吸に気づくこと、それが仏教における実践の基盤です。どんな息をしていようとも、その息をそのまま見つめるということ。僕はこの実践に救われ、今なお救われ続けています。いつでも、どこでも、何をしている時にも呼吸はいつでも寄り添ってくれる友です。呼吸に気づき、微笑んでいきましょう。幸せはいつでも今ここにあります。それでは、よいお年をお迎えください!       健
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