ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 261号 

いつもありがとうございます。11月は前半ずっと、風邪が抜けない感じでなかなか辛かったので、更新サボっててそのままにしてました。もう年末ですがまとめてアップしておきます。まず一つ目。

ひとつぶ便り 261号(2016年11月4日便)
 いつもありがとうございます。皆さんお元気でしょうか。僕は風邪気味です(笑)。はるちゃん(8か月)が先駆けでしたが、続いて僕もゆっこさんもひいています。葉菜ちゃん(小1)、花野ちゃん(4歳)は、割と元気そうです。僕は少し前から風邪っぽくて、やたらとだるく、喉が痛かったのですが、それはよくなりました。と、思ったら今度は微熱が出て、そして下がってきました。季節に体が慣れているところでしょうか。
 10月末に、一度強めの霜がありましたが、そのあとは畑が真っ白になるような霜は降りていません。その時の霜も、見た目的にかなり強いものかと思いましたがまだまだ序の口のようで、本格的に霜が来れば枯れてしまう、ピーマン、ナスなどの木もまだ生きています。日が陰り、風が吹けば凍てつくような寒さですが、日が出ていればまだまだ暖かい日も多いです。少しずつ、季節は冬になり始めています。そしてこの地域はこのあと何段階も「冬」が強まっていきます。マイナス15℃とか、20℃とか、他の地域の人だとなかなか想像できない世界だと思います。まぁ僕も毎年忘れるので、毎年「あぁこれこれ」って思います。暖かい時に冬の寒さを想像するのは難しいし、寒い時に春の暖かさを想像するのも難しいです。でも、3日も続くともう慣れたりもするものだったりもします。僕らは結構すぐ忘れるし、慣れるの
も早い生き物だと思います。良くも、悪くも。
 今回も、葉っぱもの中心のセットです。今年はダメになってしまった野菜が色々あり、この時期、いつもならばお届けしていて、今年はない、というものがたくさんあります。秋から冬にかけて、寒くなってくるこの時期の野菜というのはまた格別に美味しいのですが、色々とお届けできないのと、自分たちが食べられないのは本当に残念です。まぁそれでも、葉っぱたちは育ってくれて、元気に生きています。寒さにも当たってより甘く柔らかく、美味しくなっている葉ものたちを、お楽しみください!

続いてきて、続いていくもの
 2月に生まれたはるちゃんはもうすぐ9か月。よく飲み、よく食べ、もりもり成長しています。抱っこするのもどんどん重くなっています。はいはいの移動はとても素早くなり、少し前まで動けなかったなんて忘れそうになります。最近はつかまり立ちも始めて、家の色々、適当な場所を見つけてはつかまり立ちをしています。「いないいないばあ」を覚えて、「いないいない」とこちらがいうと、「ばあ」と返してきます。とてもかわいい(笑)。去年の今頃はまだお腹のなかですもんね。逆子になったり戻ったり、くるくるしていたと思われる時期です。よく生まれてきて、よく育ってくれています。本当に本当に、ありがたいことです。
 僕らは誰も、長い長い歴史があって、ここにいます。僕らが持っているその歴史は、遺伝子上の狭い意味のものだけではありませんが、それだけを追っていったとしても、僕ら一人一人がいかに膨大な歴史の先にいるのかわかります。母が子を産み、その子が育ち母となり子を産み、またその子が母となり子を産み、というのを、ずっと繰り返してきた事実が、今生きている誰の中にもあります。それは、どんな動物も、植物も、虫も、微生物も、同じこと。ずっとずっと、続いてきたもの。続いていくもの。
 誰もが、何もかもが、何かの継続だということ、それはただの事実だけど、人はよく勘違いをするし、現代社会に生きていると、すごく意識しにくいことだと思います。例えば野菜のことで言うと、少し前までは、その土地、その家に伝わる品種、というのが全国各地にありましたが、現在、ふつうに市場に出荷している農家さんたちは皆、買ってきた種を使います。それは主に、大企業が研究し、売っているもの。家庭菜園のレベルでは、種を採り続けているおばあちゃんとかもいるけれど、その次の世代は町に働きに行くしかないような状況では、こうした種が続いていくような状況ではありません。僕らは色々な在来種や固定種と呼ばれる種を好んで使っていますが(大企業の交配種(F1)も使っています)、これも、そういう種が買える種屋さんから買うのが主で、ずっとこの土地で受け継がれてきたもの、というものではありません。大企業が、農薬や化学肥料を使う農業の為、同じ形と大きさに揃える為に研究している野菜の種だって、元(交配種の親世代など)はどこかの農家が採り続け、より良いものに育て続けてきた種のはずです。それも、何かの続きには違いないのだけど、それを意識することはとても難しい。野菜の種は、このあたりではホームセンター、ちょっとした商店、どんなところでも手に入ります。そしてそれを買って家庭菜園をする。これを見ている子ども達は、「種を買ってくる」というところから畑が、農が始まると思うのが自然。そして野菜を収穫したら、終わり。そこには実際、始まりも終わりもないのに、目の前にはそうとしか思えないような光景が広がっています。種を採るのはある程度の技術、知識、そして手間が要るから、買ってきた方が楽な面も大きい。というか、売っている種は一代交配種(F1)が多く、種をとったら次の代でどんなものが出てくるかわからないので(メンデルの法則ってありましたね)、そもそも種を採ることには向きません。というか、種を採ることは想定されていません。僕らは多くの野菜で交配種ではないものを使っているので、その中で技術的に簡単で採りやすいもの(トマト、カボチャなどなど、あと小麦、稲、大豆など)は種をとっています。
 種をまき、育ち、花が咲き、種が実る。それをまたまき、育ち、花が咲き、種が実る。少しずつ、形を変えながら、多様性をたたえながら、それは続いてきました。僕らがそうであるように。でも種たちのそうした継続は、断ち切られつつあります。自分たちが続いているものの中にいる、ということを、少し前まではもっと理解しやすかったのではないかと思います。種に限らず、衣食住、全ての分野において。

 どこまでいっても、僕らは誰かの、何かの続きです。本来はどこかから始まったわけでもどこかで終わるわけでもありません。産道を通り、もしくはお腹を切り、世の中に出てくることは奇跡そのものですが、それが僕ら一人一人の始まりではありません。そして息を引き取る時が、終わりでもない。それは、頭で理解するというよりは、体感することで分かることかもしれません。そしてそれを体感することは、現代社会の中ではとても難しい。続いてきたものを大切にされたら、大量消費、大量生産社会は成り立ちません。だから、大切にしないように仕向けられているし、仕向ける側だって、始まりと終わりの勘違いの世界で生きています。それは、苦しいことです。
 僕は父や母の続きであるし、今日食べた野菜や小麦やお米の続きです。始まりと終わりの線、自分と自分以外の線をひいているのはいつだって自分です。その線は、本当は存在しないものです。それが体感として分かるとき、どうしようもなく楽しいような、嬉しいような、そういう気持ちになるものです。健
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