ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 262号

いつもありがとうございます。11月の記事をまとめてアップ中。2本目。
お便りの中にも書きましたがこの時は風邪がひどくてお便りは冒頭部分だけ書き直して後半はそのままです。

ひとつぶ便り 262号(2016年11月11日便)
 いつもありがとうございます。3週間ほど前にひいた風邪がなかなか抜けきらず、最近は連日の高熱が出ています。夜に高熱が出て、朝は下がるし割と元気なので、酒蔵へは勤めに行っているのですが、午後くらいから少しずつ熱が上がってきて、帰ってくると38~9℃の高熱です。そんなこんなで治るかなと思っていましたが4日くらいそんな感じで、なかなか治らないので、お休みをもらった方が良さそうです。このお便りもこれまで期間中は毎週休みなしで書いていましたが、今回は前回と続いて発送の方がいらっしゃらないこともあって、この冒頭の文以外は先週のお便りをそのまま載せることにしました。すみません。熱が上がるのと、気管支がややかゆい感じがする時がありますが、鼻水はそうでもないし、喉も痛くないし、食欲もしっかりあります。こんなに高熱が出るのは久しぶりだと思います。辛いは辛いですが、体が内部から力を発揮してくれるのは嬉しくもあります。自分の中にある「自然の力」を感じる瞬間です。また、充分な水と食べ物と衛生環境が無ければ、僕はこんな風邪であっけなく死ぬのかもしれません。ちょっとした怪我が化膿して、腕を切断しなければいけないこともあるかもしれない。生きていられるこの環境に感謝しています。そして、こういうちょっとした風邪で、命を落とすしかない人、そういう人を増やす仕組みをつくっている張本人である自分たちの行動一つ一つを思います。
 9日の朝は雪もちらつきましたが、雨もあまり降らず、よく晴れているこの頃です。今回も、葉っぱもの中心のセットです。今年はダメになってしまった野菜が色々あり、この時期、いつもならばお届けしていて、今年はない、というものがたくさんあります。秋から冬にかけて、寒くなってくるこの時期の野菜というのはまた格別に美味しいのですが、色々とお届けできないのと、自分たちが食べられないのは本当に残念です。まぁそれでも、葉っぱたちは育ってくれて、元気に生きています。寒さにも当たってより甘く柔らかく、美味しくなっている葉ものたちを、お楽しみください!

続いてきて、続いていくもの

 2月に生まれたはるちゃんは9か月。よく飲み、よく食べ、もりもり成長しています。抱っこするのもどんどん重くなっています。はいはいの移動はとても素早くなり、少し前まで動けなかったなんて忘れそうになります。最近はつかまり立ちも始めて、家の色々、適当な場所を見つけてはつかまり立ちをしています。「いないいないばあ」を覚えて、「いないいない」とこちらがいうと、「ばあ」と返してきます。とてもかわいい(笑)。去年の今頃はまだお腹のなかですもんね。逆子になったり戻ったり、くるくるしていたと思われる時期です。よく生まれてきて、よく育ってくれています。本当に本当に、ありがたいことです。
 僕らは誰も、長い長い歴史があって、ここにいます。僕らが持っているその歴史は、遺伝子上の狭い意味のものだけではありませんが、それだけを追っていったとしても、僕ら一人一人がいかに膨大な歴史の先にいるのかわかります。母が子を産み、その子が育ち母となり子を産み、またその子が母となり子を産み、というのを、ずっと繰り返してきた事実が、今生きている誰の中にもあります。それは、どんな動物も、植物も、虫も、微生物も、同じこと。ずっとずっと、続いてきたもの。続いていくもの。
 誰もが、何もかもが、何かの継続だということ、それはただの事実だけど、人はよく勘違いをするし、現代社会に生きていると、すごく意識しにくいことだと思います。例えば野菜のことで言うと、少し前までは、その土地、その家に伝わる品種、というのが全国各地にありましたが、現在、ふつうに市場に出荷している農家さんたちは皆、買ってきた種を使います。それは主に、大企業が研究し、売っているもの。家庭菜園のレベルでは、種を採り続けているおばあちゃんとかもいるけれど、その次の世代は町に働きに行くしかないような状況では、こうした種が続いていくような状況ではありません。僕らは色々な在来種や固定種と呼ばれる種を好んで使っていますが(大企業の交配種(F1)も使っています)、これも、そういう種が買える種屋さんから買うのが主で、ずっとこの土地で受け継がれてきたもの、というものではありません。大企業が、農薬や化学肥料を使う農業の為、同じ形と大きさに揃える為に研究している野菜の種だって、元(交配種の親世代など)はどこかの農家が採り続け、より良いものに育て続けてきた種のはずです。それも、何かの続きには違いないのだけど、それを意識することはとても難しい。野菜の種は、このあたりではホームセンター、ちょっとした商店、どんなところでも手に入ります。そしてそれを買って家庭菜園をする。これを見ている子ども達は、「種を買ってくる」というところから畑が、農が始まると思うのが自然。そして野菜を収穫したら、終わり。そこには実際、始まりも終わりもないのに、目の前にはそうとしか思えないような光景が広がっています。種を採るのはある程度の技術、知識、そして手間が要るから、買ってきた方が楽な面も大きい。というか、売っている種は一代交配種(F1)が多く、種をとったら次の代でどんなものが出てくるかわからないので(メンデルの法則ってありましたね)、そもそも種を採ることには向きません。というか、種を採ることは想定されていません。僕らは多くの野菜で交配種ではないものを使っているので、その中で技術的に簡単で採りやすいもの(トマト、カボチャなどなど、あと小麦、稲、大豆など)は種をとっています。
 種をまき、育ち、花が咲き、種が実る。それをまたまき、育ち、花が咲き、種が実る。少しずつ、形を変えながら、多様性をたたえながら、それは続いてきました。僕らがそうであるように。でも種たちのそうした継続は、断ち切られつつあります。自分たちが続いているものの中にいる、ということを、少し前まではもっと理解しやすかったのではないかと思います。種に限らず、衣食住、全ての分野において。

 どこまでいっても、僕らは誰かの、何かの続きです。本来はどこかから始まったわけでもどこかで終わるわけでもありません。産道を通り、もしくはお腹を切り、世の中に出てくることは奇跡そのものですが、それが僕ら一人一人の始まりではありません。そして息を引き取る時が、終わりでもない。それは、頭で理解するというよりは、体感することで分かることかもしれません。そしてそれを体感することは、現代社会の中ではとても難しい。続いてきたものを大切にされたら、大量消費、大量生産社会は成り立ちません。だから、大切にしないように仕向けられているし、仕向ける側だって、始まりと終わりの勘違いの世界で生きています。それは、苦しいことです。
 僕は父や母の続きであるし、今日食べた野菜や小麦やお米の続きです。始まりと終わりの線、自分と自分以外の線をひいているのはいつだって自分です。その線は、本当は存在しないものです。それが体感として分かるとき、どうしようもなく楽しいような、嬉しいような、そういう気持ちになるものです。健

ひとつぶ便り 261号 

いつもありがとうございます。11月は前半ずっと、風邪が抜けない感じでなかなか辛かったので、更新サボっててそのままにしてました。もう年末ですがまとめてアップしておきます。まず一つ目。

ひとつぶ便り 261号(2016年11月4日便)
 いつもありがとうございます。皆さんお元気でしょうか。僕は風邪気味です(笑)。はるちゃん(8か月)が先駆けでしたが、続いて僕もゆっこさんもひいています。葉菜ちゃん(小1)、花野ちゃん(4歳)は、割と元気そうです。僕は少し前から風邪っぽくて、やたらとだるく、喉が痛かったのですが、それはよくなりました。と、思ったら今度は微熱が出て、そして下がってきました。季節に体が慣れているところでしょうか。
 10月末に、一度強めの霜がありましたが、そのあとは畑が真っ白になるような霜は降りていません。その時の霜も、見た目的にかなり強いものかと思いましたがまだまだ序の口のようで、本格的に霜が来れば枯れてしまう、ピーマン、ナスなどの木もまだ生きています。日が陰り、風が吹けば凍てつくような寒さですが、日が出ていればまだまだ暖かい日も多いです。少しずつ、季節は冬になり始めています。そしてこの地域はこのあと何段階も「冬」が強まっていきます。マイナス15℃とか、20℃とか、他の地域の人だとなかなか想像できない世界だと思います。まぁ僕も毎年忘れるので、毎年「あぁこれこれ」って思います。暖かい時に冬の寒さを想像するのは難しいし、寒い時に春の暖かさを想像するのも難しいです。でも、3日も続くともう慣れたりもするものだったりもします。僕らは結構すぐ忘れるし、慣れるの
も早い生き物だと思います。良くも、悪くも。
 今回も、葉っぱもの中心のセットです。今年はダメになってしまった野菜が色々あり、この時期、いつもならばお届けしていて、今年はない、というものがたくさんあります。秋から冬にかけて、寒くなってくるこの時期の野菜というのはまた格別に美味しいのですが、色々とお届けできないのと、自分たちが食べられないのは本当に残念です。まぁそれでも、葉っぱたちは育ってくれて、元気に生きています。寒さにも当たってより甘く柔らかく、美味しくなっている葉ものたちを、お楽しみください!

続いてきて、続いていくもの
 2月に生まれたはるちゃんはもうすぐ9か月。よく飲み、よく食べ、もりもり成長しています。抱っこするのもどんどん重くなっています。はいはいの移動はとても素早くなり、少し前まで動けなかったなんて忘れそうになります。最近はつかまり立ちも始めて、家の色々、適当な場所を見つけてはつかまり立ちをしています。「いないいないばあ」を覚えて、「いないいない」とこちらがいうと、「ばあ」と返してきます。とてもかわいい(笑)。去年の今頃はまだお腹のなかですもんね。逆子になったり戻ったり、くるくるしていたと思われる時期です。よく生まれてきて、よく育ってくれています。本当に本当に、ありがたいことです。
 僕らは誰も、長い長い歴史があって、ここにいます。僕らが持っているその歴史は、遺伝子上の狭い意味のものだけではありませんが、それだけを追っていったとしても、僕ら一人一人がいかに膨大な歴史の先にいるのかわかります。母が子を産み、その子が育ち母となり子を産み、またその子が母となり子を産み、というのを、ずっと繰り返してきた事実が、今生きている誰の中にもあります。それは、どんな動物も、植物も、虫も、微生物も、同じこと。ずっとずっと、続いてきたもの。続いていくもの。
 誰もが、何もかもが、何かの継続だということ、それはただの事実だけど、人はよく勘違いをするし、現代社会に生きていると、すごく意識しにくいことだと思います。例えば野菜のことで言うと、少し前までは、その土地、その家に伝わる品種、というのが全国各地にありましたが、現在、ふつうに市場に出荷している農家さんたちは皆、買ってきた種を使います。それは主に、大企業が研究し、売っているもの。家庭菜園のレベルでは、種を採り続けているおばあちゃんとかもいるけれど、その次の世代は町に働きに行くしかないような状況では、こうした種が続いていくような状況ではありません。僕らは色々な在来種や固定種と呼ばれる種を好んで使っていますが(大企業の交配種(F1)も使っています)、これも、そういう種が買える種屋さんから買うのが主で、ずっとこの土地で受け継がれてきたもの、というものではありません。大企業が、農薬や化学肥料を使う農業の為、同じ形と大きさに揃える為に研究している野菜の種だって、元(交配種の親世代など)はどこかの農家が採り続け、より良いものに育て続けてきた種のはずです。それも、何かの続きには違いないのだけど、それを意識することはとても難しい。野菜の種は、このあたりではホームセンター、ちょっとした商店、どんなところでも手に入ります。そしてそれを買って家庭菜園をする。これを見ている子ども達は、「種を買ってくる」というところから畑が、農が始まると思うのが自然。そして野菜を収穫したら、終わり。そこには実際、始まりも終わりもないのに、目の前にはそうとしか思えないような光景が広がっています。種を採るのはある程度の技術、知識、そして手間が要るから、買ってきた方が楽な面も大きい。というか、売っている種は一代交配種(F1)が多く、種をとったら次の代でどんなものが出てくるかわからないので(メンデルの法則ってありましたね)、そもそも種を採ることには向きません。というか、種を採ることは想定されていません。僕らは多くの野菜で交配種ではないものを使っているので、その中で技術的に簡単で採りやすいもの(トマト、カボチャなどなど、あと小麦、稲、大豆など)は種をとっています。
 種をまき、育ち、花が咲き、種が実る。それをまたまき、育ち、花が咲き、種が実る。少しずつ、形を変えながら、多様性をたたえながら、それは続いてきました。僕らがそうであるように。でも種たちのそうした継続は、断ち切られつつあります。自分たちが続いているものの中にいる、ということを、少し前まではもっと理解しやすかったのではないかと思います。種に限らず、衣食住、全ての分野において。

 どこまでいっても、僕らは誰かの、何かの続きです。本来はどこかから始まったわけでもどこかで終わるわけでもありません。産道を通り、もしくはお腹を切り、世の中に出てくることは奇跡そのものですが、それが僕ら一人一人の始まりではありません。そして息を引き取る時が、終わりでもない。それは、頭で理解するというよりは、体感することで分かることかもしれません。そしてそれを体感することは、現代社会の中ではとても難しい。続いてきたものを大切にされたら、大量消費、大量生産社会は成り立ちません。だから、大切にしないように仕向けられているし、仕向ける側だって、始まりと終わりの勘違いの世界で生きています。それは、苦しいことです。
 僕は父や母の続きであるし、今日食べた野菜や小麦やお米の続きです。始まりと終わりの線、自分と自分以外の線をひいているのはいつだって自分です。その線は、本当は存在しないものです。それが体感として分かるとき、どうしようもなく楽しいような、嬉しいような、そういう気持ちになるものです。健

ひとつぶ便り 260号

いつもありがとうございます。少し前に風邪ひいて、喉の痛みとかは昨日おさまったけど、今度は微熱。まぁ、酒蔵も行ってるし、割と元気ではあります。

先週のひとつぶ便りです。


ひとつぶ便り 260号(2016年10月28日便)
 いつもありがとうございます。夜は結構冷え込むし、軽い霜は時々降りています。そして25日は強い霜!降りました!季節の変わり目で、体調を崩しやすいですね。うちはみんな風邪気味です。はるちゃんも先週あたり風邪をひいて、顔を赤くして苦しそうにしていましたが、一日でだいぶ回復し、もう元気です。強い霜が降りたので、畑もだいぶ様変わりしました。寒さに弱いズッキーニなどは葉っぱが全てやられました(株自体はまだ生きているようです)。今回も葉っぱもの中心のセットですが、葉物たちは霜に当たると柔らかさと甘みが増していきます。葉っぱに関しては、これからがいちばん美味しい季節です。

『月刊たくさんのふしぎ』

 『月刊 たくさんのふしぎ』(福音館書店)という雑誌をご存知でしょうか?これがすごくおもしろい!僕らの住む佐久穂町の図書館に、バックナンバーもたくさん並んでいて、ゆっこさん達が最近よく借りてきます。色々な「ふしぎ」について、毎回違う著者(専門家など)が、一つのテーマについて、写真や絵をもとに、伝えてくれます。描く人によっては一冊まるまる絵本、みたいな感じの時もあります。ジャンルは多岐に渡り、どれも読みたくなります。タイトルを見ているだけで興奮のあまり鼻息が荒くなります(笑)。小学校3年生から、ということですが、小学校1年生の葉菜ちゃんも自分で読んでいたりするし、4歳の花野ちゃんが楽しめるものもあります。僕もゆっこさんもとても楽しんでいます。ほんとおもしろい。2000年、とかの本もあるのでかなり前からやってるなぁと思って今調べていたら、第一号は1985年!30年以上前!僕が産まれた次の年!現在も継続中。ちなみに第一号は『いっぽんの鉛筆のむこうに』。文は谷川俊太郎さんです。「子どもたちに身近な鉛筆。その鉛筆ができる過程と、その過程にたずさわるスリランカ、アメリカ、メキシコ、日本など、各国の人びとの労働と生活、考え方を記録したユニークな絵本。」ということだそうです。これも見てみたい。この雑誌はこういう、深く、広く、好奇心にあふれた視点を、30年、一貫して持ち続け、表現している感じがします。内容がすごく多彩で、書いている人も色々なのに、底に流れているものが、どっしり安定している感じ。世界の広さとか、自然の素晴らしさとか、色々なことを教えてくれる素敵な雑誌です。最新の2016年11月号は『わたしたちのカメムシずかん』だそうです。岩手県の全校生徒29人の学校で起こった実話と、カメムシに対する最新知見を盛り込んだ内容だとか。いちいちすごくいいとこついてくる感じがたまりません。

『わたしのスカート』
で、まだ『たくさんのふしぎ』の話を続けますが(笑)、この前ゆっこさんと子どもたちが借りてきたのは『土の家』、『サーカスの学校』そして、『わたしのスカート』で、どれもおもしろいですが、中でも『わたしのスカート』はおススメです。機会があれば是非。2004年の11月号。これは、東南アジアの内陸国ラオスの、モン族という民族(ラオスは他民族がそれぞれの言語、文化で暮らしているようです。)の一人の女の子が、お母さん、お婆さん、お父さんに、自分も手伝いながらモン族の民族衣装であるスカートをつくる話。これ、たまらんです。
おさがりではない、自分用のスカートをつくることになったマイという女の子がまずお母さんに「麻の種をまくのよ」と言われるところから、スカートづくりが始まります。麻を育て収穫し、麻の糸をつくり、麻の糸から布を織っていく。刺繍をしたり、お父さんが採ってきたハチの巣のミツロウでろうけつ染めをしたり、細かい装飾もしていきます。やっていることは「スカートをつくる」ということ。それはこんなにも、すごいこと。何という言葉を使えばいいのかわかりませんが、こういうことだよな、と思います。
つくるための道具、麻などの材料、藍などの染料やそれを発色させたりするための石灰など、全てその土地にあるものです。人が手と心を尽くし、大地に、自然に感謝しながらそれをつくっていく。そして何か月もかけてつくった色とりどりのスカートを、正月に着て、みんなで遊ぶ。本当に、素敵。

この、モン族の人たちがやっていることは、例えば現在の日本の価値観からすれば、非効率、非経済の、バカげた行動、ということになるのだと思います。あとがきに書いてありましたが、村までの道路が通り、古いスカートは買い付けられ、村ではプリント地のスカートをはいている子が多くなったようです。2004年の時点だから、今はどうなっているのだろう。この時点ではスカートづくり自体は受け継がれている、ということは書いてあります。あとがきは今読みましたが、悲しいような、ものすごい怒りのような、なんともいえない気持ちになっています。これは本来、お金で買えるようなものではないのです。「このスカートは高く売れるから、これを売ったお金で楽に暮らせばいいよ。スカートだって安いのを買えばいい。」というのが「文明的」な「先進国」の考え方です。そうやって、世界中から文化が失われ、人は肉体的にも精神的にもどんどん飢えていっているのだと思います。それは日本でも起こっていること。
僕らが着ている服だって、自然の恵みです。綿であれ、化学繊維であれ、元は自然にあるものです。それは太陽や大地や植物、それをとりまく動物、様々な環境全てから、できたものです。でも、それを意識することはとても難しい。どこで誰がどのように作ったのか、材料はどんな植物や物質なのか、どんな道具や機械が使われたのか、どんな歴史があってそれがここにあるのか、自分の着ているものについて、きちんと説明できる人が今の日本にどれだけいますか?自分の食べているものについて、きちんと説明できる人が、今の日本にどれだけいますか?よくわからない服を着て、よくわからないものを食べ、よくわからない家に住んでいる。少し前までは、特に農村ならば、この絵本のように麻や綿を育てるところから服をつくっていたろうし、自分たちの田畑のものを食べ、そのへんの木で家を建てていたのに。
現在、「自分の田畑のものを食べる」ということは、ある程度やっている人は多いですが、そこにかつてあった、自分たちの集落内で循環し、持続していくシステムは失われています。現在の一般的な農業においては化学肥料や農薬、そして種子など、どこかから買って来なくてはいけないし、昔は多くの人手でやっていたことを1人とかでやらなくてはいけなくなり、トラクターや軽トラなどの機械も必須。「自給自足」と言うけれど、さてどのあたりが「自給」できているのか、と、自分たちの農業を見ても思います。色々とできないこと、難しいことはありますが、目指すことは可能だし、できることもたくさんあります。日々、僕は喜びと楽しさを感じて暮らしていますが、身の回りのものが、どこからきたものか、誰がつくったものか、もっともっとわかるのなら、その楽しさも喜びも、もっと深くなっていくでしょう。
色々な著者たちが『たくさんのふしぎ』には登場しますが、彼らは自分の興味ある分野を、ひたすらに愛しています。世界はこんなにも広く、深く、楽しく、美しいんだということは、何からでも、どこからでも知ることができるというのを教えてくれます。世界はふしぎ。自然はふしぎ。どこまで行っても。健

ひとつぶ便り 259号

いつもありがとうございます。今日は記事2つアップしました。
これは先週のひとつぶ便りです。

キシャヤスデ大発生中!!

ひとつぶ便り 259号(2016年10月21日便)
 いつもありがとうございます。冷え込んだり、暖かくなったり、季節の変わり目の真っただ中ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。こちらも、7℃とか、一けたまで下がる日があったり、昼間は半そででも暑い日があったり、色々です。ここ一週間くらいは割と暖かく、夜もストーブをつけないでいられます。とは言え、空気は秋です。山も色づいてきました。このあたりはカラマツがたくさん植わっていますが、カラマツは杉や他の松などと違って紅葉するし落葉もします。「カラマツ」を「落葉松」と表記する場合もあるようです。「唐松」が一般的な表記だと思いますが。全国各地の杉林のように、もともとは木材用に植えられて、現在は放置されているカラマツ林がたくさんあります。間伐もろくにされず、荒れているところがほとんどなのでしょうが、紅葉はなかなかきれいです。緑から、茶色っぽくなり、オレンジというか黄色というかに色づいていきます。ちなみに、うちで使っている薪ストーブは「カラマツストーブ」というもので、ストーブでカラマツを燃料として使うことで、荒れた森を手入れしよう、というようなコンセプトのもとに作られたもの。針葉樹は広葉樹に比べて燃やすと高温になりやすいそうですが、その中でもカラマツは特に温度が高くなって、ストーブが傷みやすいのだとか。それが、シンプルで頑丈に作られているこのストーブは大丈夫、というのが売り。まぁ何十年も使っているわけではないので実際のところわかりませんが(笑)、僕ら夫婦が暮らし始めた時から使っている、生活の中に無くてはならないものです。特にこれがいい、と選んだわけではなく、縁あって出会い、使っているものです。

 今週も、葉物を中心にお送りします。色々育たず、播き直し、その後長雨もありましたが、ラディッシュがほとんど割れてしまった以外は特に問題も無く育ってくれている感じです。今シーズンはいつまで出荷が続けられるかわかりませんが、11月いっぱいくらいはやりたいなと思っています。

酒蔵始まりました。
この冬も、近くの酒造会社「黒澤酒造」で働くことになり、月曜日から働きにいっています。酒造りをする蔵人たちは基本的に決まった休みはないので(希望を出せばどうにかしてくれる)、しばらくは時々休みをもらいながら、畑と並行してやっていく感じです。今年で4年目。メンバーは毎年少しずつ変化がありますが、大体はおなじみのメンバーという感じなのでそういう慣れもあり、仕事もそれなりに覚えてはいるので、そういったことは特に問題を感じませんが、ただ「勤める」というだけで、自分の畑の上で働いている時にはないストレスを感じます。普段は感じない自分の心の動きに気づく機会があったりもします。まぁ、毎年結構楽しくやらせてもらっているので、今年もそんな感じでやっていけたらなと思います。

キシャヤスデ大発生中
 家のすぐ近くの畑に、ムカデのような虫が大量にいて、なんだこれ!と思って調べたら、ヤスデの一種で、どうやら「キシャヤスデ」という種類のようです。虫の大発生なんて、あまり良いことではない場合が多いですが、ヤスデは、基本的に8年に1回の間隔で大発生するような生態だそうです。ひとつぶ農園は8年目ですが、いま大発生中の畑は8年前には使っていなかったので、8年前このあたりでどうだったのかは知りません。大発生は成虫になったヤスデたちが交尾の相手を探す「お見合い」みたいな感じだそうです。キシャヤスデの成虫は、オレンジに黒い縞が入っています。これがうようよしているのは虫嫌いの人は卒倒しそうな光景だし、この文章でも恐ろしいのでしょうね(笑)。しかし大好きで研究していたり情報を集めている人もたくさんいて、ネットで少し探しただけでも愛のあるヤスデ情報をたくさん目にすることができます。このヤスデという生き物、野菜などを食害することはなく、人を刺したりすることもなく、枯れ葉などの有機物をたくさん食べ、分解するそうです。そして大量の糞を残す。「森の掃除人」と呼んでいる人たちもいるようです。さらに、土の中を移動することによって、土の物理性も良くしてくれるとか。こういう役割を聞いていると、分解者の代表格、ミミズ様の存在が頭に浮かびますが、この大発生時の分解能力は、ミミズをも凌駕するようです。ちなみにそのミミズは、10アールあたり10万匹もいれば、年間一トンの土を耕し、5トンの糞土を残すとか。すごい!!
ちなみに「キシャヤスデ」というのは、僕らの最寄り駅「八千穂駅」も通っている鉄道「小海線」の列車が、1976年の大発生時に線路上で踏まれたヤスデの体液で列車がスリップしたことに由来するそうです。1984年と書いてある記事もありましたが、ちょうど8年後ですね。僕らは電車はほとんど乗らないので知りませんでしたが、時々小海線を利用する友人によると、今もヤスデによって電車が止まることがあるそうです。列車のスリップはどうやら僕らの住んでいる場所よりもっと標高の高い、車で行けば30分~1時間くらいのところの話で、勾配の強い坂が、止まれなくなる、という感じのようです。
色々な生き物たちのおかげで、そこに土がある。自然がある。ヤスデはそういうことを特に意識しやすい生き物かもしれませんが、それぞれの生き物が、深いか浅いかの差はあれ、それぞれ関係し合いながら、依存し合いながらそこにいます。一般的に、農業では農作物を食べるような虫、病気を媒介するような虫は「害虫」と呼び、そういう虫を食べたりしてくれる虫を「益虫」と呼びますが、それぞれの関わりを深く広く、しっかり見ていくのならば、その呼び方はあまり適切ではなくなっていくと思います。表面的な害と益にとらわれ、全体として破綻の方向へ向かっているのが現代社会であり、その中にあるのが現代農業です。また、特に目に見える害も益ももたらさない虫たちによって、色々なことが担保され、支えられているのだと思います。そういうものたちは害も益ももたらさないという理由から、研究されることが少なく、研究に対してお金も出ない。だからといって、そのものたちの働きは間違いなく僕らと関係があるし、そのものたちが理解されようとされまいと、その命の価値は変わりません。いつでも最高です。僕らに必要なのは虫や菌を殺戮する技術ではなく、土や全ての自然に対する感謝と、大切にする心。そしてそれに伴う行動だと思います。その行動は、僕ら人間の命を大切にすることそのものです。
化学肥料を使えば、野菜は大きくなるそうです(使ったことはありません)。そうして大きくなって野菜の大部分は、化学肥料によって成り立っています。例えばそれは、元はどこかの鉱物なわけです。それが掘り出される場所は自分の国の中であることもあるし、どこか外国であったりする。鉱物そのものはもちろんのこと、その場所に暮らす動植物、場合によっては人への配慮も為されず、それは掘り出されます。世の中に出回っている野菜のほとんどが、そういう肥料で育ったものです。「国産野菜」と言いながら、他の国から奪ってきた何かが、その野菜の多くの部分を占めています。もっともっと、動物にも植物にも、虫にも人にも、優しい世界であって欲しい。やれることを精一杯、やっていきたいです。  健

ひとつぶ便り 258号

いつもありがとうございました。
先週、アップできなかった先々週のひとつぶ便り。稲刈りのこと書いてあるけど、もう昨日脱穀した!
このあと先週のお便りもアップする予定。

ひとつぶ便り 258号(2016年10月14日便)
 いつもありがとうございます。急に寒くなりましたね。9月後半はほとんど雨でしたが、それでも気温自体はそこまで低くなく、たまに晴れればやたらと暑い、という感じだったので、突然寒さがやってきた感じです。寒くなったのは9日ごろですが、はっきりとその日に季節が変わった感じで、おもしろいです。上半身に来ている服は、1枚から3枚に増えました。ここまで半日で発酵していたパンは、1日がかりでやっと発酵するようになりました(常温で発酵させています)。11日は薪ストーブを今シーズン初焚き。暖かい料理が美味しくなりました。やっと秋がやってきました。というか冬の足音も聞こえます。現在(12日夜)外は一ケタの気温。近いうちに、たちまち霜でも降りそうな勢いです。寒いのは何かと大変ですが、シンとした寒い冬の空気も好きです。そういう空気を少し感じる最近です。

 お伝えしている通り、今年は色々と育たなかった野菜があり、播き直して育ってくれている葉物たち中心のセットです。葉っぱものはなんといっても秋から冬にかけてのこの時期が美味しいです。体も欲しているように感じます。色々と入りますが、それぞれの個性があります。お楽しみください。

稲刈りと稲架掛け、やりました。
 雨続きでなかなかできなかった稲刈りと稲架(はざ)掛けを、7日一日と8日の午前中でやることができました!現在はコンバインという、刈って脱穀までする機械で稲刈りをして、そのあと籾を機械で乾燥、というのが一般的な方法なのだと思いますが、僕らの住むこのあたりでは、バインダーという、刈って結束する機械を使い、その束を一つ一つ、木で組んだ稲架に掛けて天日干しする習慣が残っています。佐久平の方の大きい農家さんでも結構やっています。僕らもバインダーで刈って、稲架掛けしています。
 今年はまず、田植えに使う機械を中古で去年手に入れた関係で、それに合わせて苗づくりの方式が変わったり、今年から借りた田んぼがあったり、いろいろと初めてのことがあった春先でした。まずちゃんと植わるのか、植わっても育つのか。そんなところから心配だった春でしたが、収穫までこぎつけることができました。ありがたい。ありがとう。見る限り今年は豊作と言うにはほど遠い収量ですが、間違いなく僕らの命と生活を支えてくれるお米たちです。

 稲刈りや稲架掛けは、親戚総出でやっているようなところも結構見ます。一人では大変なので、うちも誰かしら来てくれた時は手伝ってもらいますが、毎年基本は夫婦でやります。今年は葉菜ちゃん(小1)が結構手伝ってくれて、だいぶ助かりました。こういう時はいつもなら花野ちゃん(4歳)の方が根気強く手伝ってくれて助かるのですが、今回は稲がかゆかったりして集中できなかったようでした。はるちゃん(8か月)はゆっこさんにおんぶされ、参加していました。子どもたちは当然飽きてくるので、田んぼからすぐ近くに住んでいるゆっこさんのお父さんに一時的に3人預かってもらったりもしました。後で聞いたらその日、坐骨神経痛でかなり痛かったそうですが、預かってもらってかなり助かりました。その時間、ゆっこさんが自由にバリバリ働けたので、だいぶはかどりました。
 毎回バインダー(機械)は僕らの研修先だった織座農園から借りてきますが、これがなかなかオンボロで、織座も含めて他にほとんど使う人もいないので、何か不具合があれば僕が農機具屋さんに持ち込んで直してもらっていますが、今年は7月の麦刈りも今回の稲刈りもなかなか調子がよく、特に農機具屋さんに持ち込むこともなかったので、助かりました。去年だったか、農機具屋さんがエアフィルターを正規品ではないものに交換してくれてから非常に調子がいいです(笑)。バインダーの調子は良かったのですが、僕がその日、朝に軽くぎっくり腰(?)みたいな感じになって、腰曲がりながら作業していました。痛いけど別に動けないこともないし、重いものが持てないわけでもないのですが、腰が立たなくなる感じ。まぁ、軽かったのでよかったですが、1年に1回ぐらいあるのがよりによって稲刈りの日だったのに焦りました。(12日現在、もうほとんど治り、今日はダンスの練習会でふつうに踊っても問題ありませんでした。)こんな時は特に、自分が体をうまく使えていないことを感じます。一部分に負担をかけるようなことを、平気でやってしまっているのだろうなと思います。長年の習慣を変える、というのは本当に難しいことだと思いますが、心にせよ体にせよ、もっといたわっていきたいなと思います。特に体については、まだ若いからなんとかなる部分があるのだろうけど、当然どんどん年をとるので、もっと優しい使い方を覚えたいです。イチローぐらい大切にできたらなぁと思います。
 ともあれ、稲刈りは終わりました。ありがとう、自然!これから天日干しして、2~3週間くらい後に、脱穀です。もち米も収穫できました。野菜セットは野菜が少なくて早めに終わりそうですが、年末はお餅をついて、お餅便をお届けできるかと思います。詳しいことはまた連絡します。

 自分たちで育てた野菜やお米、小麦、豆などを食べて生活できるのは本当に豊かだと思います。すごく、贅沢なことだと思います。今の生活ではこれが当たり前だから忘れそうになるけど、これが当たり前、というのは実はすごくありがたいことなのだと思います。米一粒の中に、太陽も、雲も、雨も、風も、土も、流れる川も、僕ら家族も、全て含まれています。そういうことが想像しやすい、感じやすいというのもありがたいことです。米一粒の中には自然の全てが含まれています。人間も含めて。少し深く見ていくのなら、そこには太陽や土の中の生き物たちの存在だけでなく、機械や車を動かす石油の存在もまた、見えてきます。石油にまつわるお金の流れの中で、搾取され、差別され、苦しむ人たちの姿が見えてきます。自分たちの畑で育ったものだからと言っても、実際はどこか遠い国から運ばれてきた石油に依存して、それが育っている部分があります。軽トラ、トラクター、田んぼの機械、僕らが使う機械は小さいですが、機械がなくては畑や田んぼはとてもできる気がしません。生活の中でもそうですが、農業の様々な部分でも、世界の色々な搾取や貧困に加担しています。それは例えば農薬や化学肥料を使う農業と比べればものすごく環境への負荷は少ないですが、僕らが例えどんな生活をしようとも、その構造から逃れることはできません。でもそれは、搾取の無い世界を諦めることの理由にはなりません。よりマシな選択を常に考え行動し、より優しい世界を、平和な世界を目指すことは可能です。そして、世界のどこかの人を苦しめることは、自分たち自身を苦しめるのと同じことです。世界のどこか知らない人を助けることは、自分の目の前の愛する人を助けるのと同じことです。世界の搾取や貧困、差別を無くそうとすることは、一部の立派な聖人君子だけの神聖で特別な行為ではなく、目の前で赤ちゃんが泣いていたら抱っこする、というような、僕らの中に当たり前にある気持ちによって当たり前にできることだと思います。健

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