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ひとつぶろぐ

長野県南佐久郡佐久穂町(旧八千穂村)、有機野菜の「ひとつぶ農園」のブログ。

ひとつぶ便り 320号

いつもありがとうございます。更新全然していないので記事がたまってます。
とりあえず先週のやつをアップしまーす。

ひとつぶ便り 320号(2018年10月5日便)

 いつもありがとうございます。台風24号はたくさん雨を降らせていって、車で5分くらいの距離にある大石川が見たことのないほどの水位まで上がっていて恐ろしい濁流になっていました。9月はとにかく雨ばかりだったので、そもそも山や田畑の保水力が飽和状態になっていて、そこに今回の台風が来たので、そういうことになったのだと思います。それでも特にどこかが決壊したとかいう話はないし、目立った人的な被害もこのあたりでは無さそうですが、畑が水浸しになって田んぼのようになっているところも多く見ました。僕らの畑では水浸しということはありませんでしたが、稲刈りのためにだいぶ前に水を切ってある田んぼにすっかり水がたまってしまって、稲刈りどころではありません。もういつもなら刈って干していますが、今年はまだできずにいます。刈れないのも困りますが、既に刈って、稲架にかけて干している人たちも雨ばかりで稲が乾かず、なかなか脱穀できないでいます。こう雨ばかりなのは何かと厄介で、直接的にも間接的にも、色々と良くない影響があります。毎年、一年を通じて気候が安定している、なんて年はそうそうありませんが、今年はまた特に天候が激しい年である気がします。
 僕らの住んでいるあたりはそれでも、大きな被害は出ていない方だと思います。天気予報で雨の流れを見ていると、山でかなり守られているような感じがします。同じ長野県でも、諏訪地方ではまた大規模な停電が起きて大変なようです。自然災害があれば、それぞれの人たちがそれぞれの困難に直面しますが、中でも農家はかなり直接的に被害を受ける仕事だと思います。一般の農家さんであれば共済などに加入していてある程度の補償があるのでしょうが、有機農家は僕らのように小さい農家がたくさんあって、うちもそうですが一般の共済などに加入するのは色々な面で無理があって、加入できなかったりしていない人も多いです。災害があって野菜やお米が採れなくても、誰も補償してくれません。実際に、以前大阪で農業をしていて今はこちらにいるある友人の大阪の仲間たちは、7月の関西の豪雨で畑が壊滅的になってその時すっかりやる気を失っていたそうです。各地にそういう人がいることでしょう。
例えば会社勤めをしていたら、農家の日々の苦労やこういう災害時の苦労は思いもよらないだろうし、農家からしたら、会社勤めの人たちの様々な苦労は思いもよりません。農家といっても色々あるし、経営も栽培もやり方によって、土地によっても全く苦労が違ってくるので、農家だから農家の苦労が分かるかといったらそんなこともありません。同じ家の中で同じものを食べている家族であっても一人一人それぞれ考えていることは違うし、抱えている問題も何を好むかも、色々とかなり違います。どのような場合でも、それぞれが「同じではない」ということを知っておくことはすごく重要だと思います。例えば葉菜ちゃんの通う小学校や花野ちゃんの通う幼稚園においても、「○○小学校の児童は」「○年○組のみんなは」とか「○○っ子たちは」みたいにその組織のメンバーはみんな同じであるかのような表現をしばしばお便りなどで目にします。分類してそこにいる人たちの傾向をつかむことで理解しやすくなることも時にはあるでしょうが、ほとんどの場合は一人ひとりに目を向けにくくなったり、その枠組みに入れない子が「自分はおかしいんだな」と感じたりするような弊害の方が遥かに大きくなっていると思います。一人一人は全然違うし、そのそれぞれの一人もまた、一瞬前とは体も心も同じではありません。   健

ひとつぶ便り 309号

いつもありがとうございます。全然更新していなくてたまっている記事を徐々にアップしています。まだ7月の記事で、暑いときです。あの時からすれば、すごく涼しくなりましたね。

ひとつぶ便り 309号(2018年7月20日便)

 いつもありがとうございます。ものすごく暑いですね毎日。そしてあの大雨が続いた時から一変して雨が降らない日が続いています。ここは標高1000メートルくらいの比較的涼しい場所ですが、気温は連日30℃を超え、今日(18日)は温度計が35℃を指していたそうです。こんな暑さは災害みたいなものだから、こんな時は色々な仕事、誰もが休んだほうがいいと思いますが、畑の野菜たちや草たちも休んではくれないので、毎日やることはたくさんあって、毎日畑に出ています。しかしまぁ、僕が育った練馬の暑さはこんなものではないし、それに比べればだいぶマシで、動けます。光化学スモッグのようなものも発生しません。あと、夜はだいぶ涼しくもなります。それと、僕らの借りている畑は半日日陰、みたいな場所も多いので、多くの時間、割と爽やかな環境で作業していたりもします。日当たりがいい、というのは良い田畑の条件と言われますが、こんなものすごく暑い時は、同じ畑の中でも日陰の時間が長い場所でしか野菜しか育たないこともあります。太陽の恵みを受けてどんな命も生きていますが、その光と熱は時として、命を奪うものでもあります。直射日光の中で、長時間生きていられる生き物は、そう多くないように思います。人間も、水分が無ければすぐにでも命の危険があります。木があれば、森があれば、そこには陰ができて、湿度も保たれ、多くの生き物が生きられます。土の露出した畑の表面は、それと逆の状態。特に小さな生き物たち、微生物たちにとっては生きることが困難な環境です。畑の上にも草が適度に生えていたり、草を刈って敷いておいたりすれば(草マルチ)、その下で小さな生き物たちが生きられます。小さな生き物たちが生きられるということは、それを食べて生活しているようなものたちも生きられるということ。そこで生きるものたちの力が、土の力。ある程度の規模をやっていると、なかなか全面に草マルチ、なんてことは難しいのですが、もっとやっていきたいし、作業的にもいろいろ工夫したいところです。と、草と小さな生き物たちの話を書いていて今、ふと「境界線」が分からなくなりました。ある程度の期間、厚く敷いておいた草をめくってみると、地面と触れているところは、菌が白く集まっていたりします。それは、どこまでが草で、どこまでが菌で、どこまでが土なのか、と。敷いてある草はあまりめくらないほうが、そこで暮らすものたちにとっていいでしょうが、その下で旺盛に生きる虫たちの姿を見たくなって時々ついめくってしまいます。そこで命が活発に生きているのを見るのは、すごく嬉しい気持ちになります。本来、目に見えないほど菌のようなものたちも、そこではそうやって集まっていて、目に見えたりもします。「土」と呼ばれるものは、ものすごくダイナミックで動的で、生きているもの、死んだもの、鉱物、様々なものの集まりです。草が虫を食べたり、虫が虫を食べたり、そうして小さくなったものを菌が分解したり、そうやって土の一粒となったら今度はまたそれが草を育て草になったり、それを食べた虫になったり、というふうに、すごく狭い範囲だけ見たとしても、そこには時間的にも空間的にも、複雑に絡み合い、頼り合い、折り重なる命たちの姿が見えます。僕ら人間の体も、そういう折り重なる命たちの存在と共にあります。僕らの体も心も食べたものでできています。お米や野菜たちはちょっと前まで草や虫や太陽の光や風や、色々なものだったし、僕の体や心はちょっと前までお米だったし、野菜たちでもありました。「いただきます」を心から本気で、言わずにはいられません。 健

ひとつぶ便り 308号

いつもありがとうございます。すっかり更新をサボっていて記事はたまりにたまっているので、ちょこちょこ更新していこうと思います。2か月くらい前の記事ですが、このときも豪雨で大変だった時ですね。

ひとつぶ便り 308号(2018年7月13日便)
 いつもありがとうございます。こちらも先週金曜日あたりから雨がたくさん降り、一度やんだ後も毎日どこかの時間帯でかなりの量が降るような一週間です。こちらは災害というほどのことは今のところありませんが、関西方面、ものすごく大変なことになっているようですね。100人とか200人とか、人数では到底表せない、一人一人それぞれの悲しみや苦労がそこにはあるのだと思います。農家として、畑が冠水した農家さんたちのことも思います。今ある農作物がもう採れないだけでものすごく悲惨ですが、土が流されるとか、化学物質が他から流れてくることもあるだろうし、今後も同じようにそこで畑ができるかもわかりません。僕らのところのように、そこまでの雨ではなくても必ず何かの影響はあるし、こう長く雨が続けば全てダメになってしまう野菜(レタスとか)もあります。職業や年齢や性別、他様々な状況があり、それぞれの苦しみをとても想像しきれるものではありませんが、自分の子どもや家族を失うとか、少し想像してみるだけでもものすごく痛ましいです。自分の日常は明日も同じように続くだろうと、きっと日本に生きる大多数の人が思っているだろうし僕も思っているけど、僕らの住むこの島はこうした豪雨や洪水、地震や津波、台風など、大いなる自然の力に常にさらされていて、一瞬で何もかも変わってしまうことも、しばしばあるのですね。日々の暮らし、その一瞬一瞬の大切さを思います。このあたりでは数年前大雪があって、交通網が止まって物流が止まり、スーパーにもコンビニにもものが無くなる、ということがありました(うちはほぼ買い物しませんが)。自然と共に生きる気のないこの社会の仕組みは極めて脆弱で、自然災害と呼ばれる何かが起これば、ほとんどの人が「豊かさ」だと思っているそれが、ただの見せかけだということがわかります。そして、自然を征服し、自分たちは自然を支配しているという勘違いが、自然災害がもたらす被害をさらに深刻なものにしていると思います。どんなにお金をかけてすごい機械を作ろうが高い堤防を築こうが、自然というものそのものを抑えきれるわけがありません。洪水や津波が来たら、「高台へ逃げる」とかそもそも低い場所に家を建てないとか、何百年も前と今で、人ができることはそう変わっていないはず。というか、その土地にあるものと人員だけで衣食住をまかなっていた人々は、今の人間より遥かに生命力が高かったろうし、むしろ今は昔より、できることが大幅に減っているかもしれません。と、書いた後、ネットで目にした記事で、キューバは気象学と防災の連携が素晴らしく、他の国で多く死者が出るハリケーンの直撃を受けても誰も死なない国、というのがありました。日本の気象庁の、雨量などの予測システムもとても優れているもののようですが、それが命を守るために活かされているとは到底思えません。東日本大震災の時の、放射性物質拡散を予測するスピーティというシステムの予測はその後の汚染とほぼ一致したのに、当時の政府がそのデータを避難のために公表しなかったのを思い出します。そのせいで重い被ばくをした人がたくさんいます。豪雨などにしても、情報をきちんと使えるなら、「逃げる」という選択に昔と変わりはなくても、いつ、どこに逃げればいいかは、昔よりも遥かに正確にわかる、ということですが、情報を運用する人間たちが命よりお金を優先している限り、それがあるべき形で使われることはありません。命を大切にする心と行動。それはあまりにもこの社会から欠けているものだし、何よりも必要なものだと思います。  健

ひとつぶ便り 311号

いつもありがとうございます。まだアップしていない記事が他に3つほどあるのですが、ヤギのすみれちゃんがうちにやってきたという、生活に一つ大きな変化があったので、そのことについて書いたこの記事を先に、アップしておきます。
来てから1週間以上が経ちましたが、だいぶうちにも馴染んだと思うし、だいぶ慣れたと思います。ヤンチャな面も見られるようになってきました。では、先週のひとつぶ便りです。

ひとつぶ便り 311号(2018年8月3日便)
 いつもありがとうございます。先日通過した台風12号は僕らの住んでいるあたりには、たっぷり雨は降らせてくれたものの豪雨というほどではなく、風もそれほどではなかったので、ただありがたく感じました。その前後はやや涼しい気温の日が続いて、昼間も比較的快適で夜は肌寒いくらいでしたが、ここ数日はまた猛暑です。これを書いているのは夜で、昼間に比べればだいぶ涼しいし、東京などの寝苦しさからすれば何も問題ないくらいですが、標高1000メートル近いこの場所としてはだいぶ暑く感じます。
 台風は2週間ぶりくらいの雨をもたらしてくれて、だいぶ畑もそこにいる野菜や草たちも潤いました。しかし、雨が降ったら全て解決、なんて話ではもちろんなく、その前の猛暑と乾燥の影響は色々と出ています。例えばズッキーニは、恐らく小さい実の段階であの暑さに当たったせいで受粉できなくて、きれいに育っている実が少なく今採れる量が少ないです。そうやって、2週間前とか1週間前の天候の影響が、今出てきたりします。2週間前の天候でその時採れないこともあれば、2週間前の天候のおかげで採れている場合もあります。人間のする作業にしても、例えば種を播いてから収穫するまでには時間がかかるし、草取りなども、その作業が収穫に影響するまでには時間がかかります。そういう「時間差」は、農業の醍醐味な気がします。実際は作業も天候も畑の土も、それぞれの条件が複雑に絡み合っているから、何がどう作用しているのか分からない部分が大きいし、作業的にはすごくがんばったけど天候があまりに悪くて収穫できない、とかその全く逆みたいなこともしばしば起こります。たくさん採れそうと思った野菜が獣たちに全て食べられることもあります。その部分だけ見たら、「成果」とか本当に分かりにくいですが、土の上や中に住んでいる全ての生き物たちを大切にするような農業をしていれば、目先の収穫がどうであれ土はゆっくり育っていき、生き物が数多く、多様に生きている健康な状態になっていきます。畑は常に、天候等に強く影響されるものだけど、例えば土の中の生き物たち、植物の根によって団粒構造が育てば水はけも水持ちも良くなるから、その分野菜の成長や収穫なども安定します。こういう農業をしていれば、1週間とか2週間の話ではなく、5年前の農作業の恩恵を今受けられるし、今した作業が5年、10年、20年後、もっと先への贈り物にもなります。
 ところで、うちに新たなメンバーが加わりました!ヤギのすみれちゃんです。生後3か月のメスのヤギさんで、知り合いのところで3頭産まれたうちの1頭を、お願いして我が家にもらってきました。除草とか乳とかそういう目的もありますが、ただ、ヤギと一緒に暮らしたい、というのが主な動機です。先月の29日に来てこの数日ですが、僕ら家族のそれぞれが、すみれちゃんにはとてもいいものをもらっています。特に次女・花野ちゃん(6歳)は普段しない早起きまでしてすみれちゃんの小屋(家の前の畑にゆっこさんが建てました)に行ったりして、よく一緒にいます。もともと人間にも、自分の母や兄弟たちにもたっぷり愛情を受けて育っていたから、すみれちゃんもとても人懐っこく穏やかな性格のようです。
その愛情に溢れた安心できる環境から、1頭だけ連れてくる、というのは実際にその別れのシーンの中にいて、ものすごく辛いものがありました。事前にはそこまで自分が辛い気持ちになるとは想像がついていませんでした。愛情深い人間と、ヤギの母ときょうだいに囲まれて安心して暮らしていたところに、何度かしか会ったことのないよく知らない人間がある日突然やってきて、車に載せて連れていく。なんと恐ろしいことか。元より、何かの生き物と暮らす時、最も大事なことはその生き物の幸せだと思っているし、すみれちゃんも最高に幸せに暮らして欲しいと思っていますが、今回与えてしまった恐怖と絶望はある意味では取り返しがつかないし、僕は僕自身が感じたこの痛みを、忘れないようにしたいです。家畜と呼ばれる生き物たちは特に日本においては、生きる喜びを全く感じられないような状況で生まれ育ち、そして死んでいくわけで、それはとてもひどいことだと思いますが、こうして既に幸せに暮らしていて、これからもきっと幸せに暮らしていただろう生き物を家族から引き離すというのは、それもまたとてつもなくひどいことなのだというのを感じました。すみれちゃんを軽トラ(幌付きのものを借りていきました)に載せるとき、柵に隔てられたすみれちゃんとその家族は、お互いに大きな声で呼び合っていて、本当に切なかったです。完全に僕らの都合で、なんてことをしているんだと心より思ったし、今も思います。すみれちゃんがその時感じたものもですが、母ヤギ、ユキちゃんの心情を考えても、心苦しいです。ユキちゃんはそこで産まれたヤギではなく、大きくなってからもらわれてきたのですが、そこに来る前に、何度か産まれた子どもをすぐに離されているそうです。今回、僕らが行って、「連れて行こうとしている」と感じ取ったようで、それほど強くではないものの、僕らを頭でゴンゴン押してきたり、すみれちゃんに首輪をつけようとされるのを、守って、すみれちゃんはそれに守られて、という光景がありました。今、安心して自分の子どもたちと暮らしていたのに、やはりまた見知らぬ人に連れていかれる。2頭の子どもはこれからも一緒にいるし、今はきっと、また何事もなかったように暮らしているのだと思いますが、実際は何事もなかったわけではもちろんないし、その時きっと彼女は深い悲しみのようなものを抱いたと思います。その時僕らはよっぽどのものを、踏みにじってきたのだと思うし、それは今後どんなにうちですみれちゃんが幸せに暮らすことができたとしても、どんなに良いことがあっても、正当化されるようなものではないというのは、はっきりしています。
 すみれちゃんはとても人懐っこく、かわいいです。大切にされて育ってきたからこその懐っこさだろうし、愛情深いファミリーから来てくれたのを、本当にありがたく思っています。Fさん夫妻には深く感謝しています。来てから数日経ち、だいぶこちらの生活とここにいる僕ら人間たちにも慣れてきたようで、連れてきた日とか次の日よりはかなり落ち着いている感じがします。それは来た日からそうですが、散歩をしてもロープを引っ張ることはないし、一緒にゆっくり歩きます。人がそばにいれば鳴かないし、離れると鳴きます。桑の葉が大好きで、むしゃむしゃ食べます。僕ら家族、それぞれにとって色々といいものをもらっています。他のことでは体験できないことを、すみれちゃんの存在が教えてくれます。大切に、一緒に暮らしていけたらと思います。「ヤギさんがきた!」と言えばきっと多くの人が楽しい感じに想像するし、実際にすみれちゃんがいてくれて僕らはとても楽しいわけで、それだけ書くこともできましたが、その陰で、踏みにじられたヤギさんたちの生活や様々な思いがあったことも、残しておきたいなと思ったし、忘れてはいけないことだと思ったので、書きました。
 一つ一つの別れにいちいち悲しんでいたら、動物の権利など考えていたら、(特に日本の)畜産なんて成り立たないだろうし、それは農業も似たようなことかもしれません。でも、そういう悲しみはもっと、感じた方がいいもののはず。実際はあるのに、見ていないのだから。命を食べて生きている、ということの重みを、誰もがもっと感じた方がいいし、それを感じたら自分の命ももっと深く慈しめるはずです。健

ひとつぶ便り 307号

いつもありがとうございます。大雨の直前くらいに書いた文章ですが、このときも暑かったなぁ。

ひとつぶ便り 307号(2018年7月5日便)


 いつもありがとうございます。今日(4日)は曇っていて、弱い雨が降る涼しい一日でしたが、ここ一週間はここまで晴れが続いて、標高の高いこのあたりもかなりの暑さでした。このあたりは昼間の気温は東京などとあまり変わりませんが湿度が低いので、炎天下の中でもまだ動けます。僕は東京の練馬の出身だし、ゆっこさんは兵庫県の川西市出身で、京都に住んでいたこともあるので、そういう場所の暑さがどういうものかもよく知っています。温度が高くても湿度が低いとだいぶ過ごしやすいということを、ここに来て知りました。それと、猛暑の日でも夕方になればだいぶ涼しくなるのが、助かります。
 連日暑くて、僕もゆっこさんもだいぶバテていたし、こうして雲が出て涼しくなれば、だいぶ動きやすくなります。例えば土の中の微生物とか、パンの酵母とか、それぞれに得意とする温度帯があって、その温度だったら活発に活動して増殖するし、ある温度より高くなれば生きていけないし、低かったら活動がゆっくりになる、みたいなことがありますが、人間も全く似たような感じだなと思います。しばしば多くの人たちは人間と自然と切り離して考えたり、人間を他の生き物たちと比べて特別だと考えているように思いますが、人の活動も微生物や動植物と同様、温度と湿度だけで、かなりのことが決まっている気がします。例えば「暑いとビールがよく売れる」とかいう事実からでも、「生き物」としての人間を感じられます。ちょっとした温度、ちょっとした湿度の違いで、自分の心身の調子も、行動も言動も、違ってきます。もちろん気温と湿度だけが僕らを取り巻く環境ではなく、気圧などもすごく感じやすい要素の一つですが、そういった一つ一つの環境の要素に大きく影響されながら、僕らは今日も生きています。また、太陽の光は僕らを生かしているけど、夏の強い日差しは熱射病の原因にもなり、場合によっては命をも奪います。畑に生きる野菜たちや草や虫や微生物たちも、太陽の恵みを受けて生きていますが、直射日光のもとではカエルもヘビもミミズも微生物たちも、生きていくのは困難です。木や草の陰で、彼らは生きます。生きている草の下や、枯れて倒れた草の下にも、たくさんの命を見つけることができます。そこには、どの命も他の命に頼り合いながら生きている姿があります。この社会においてはすごく多くの人が、人間は他の生き物と違って特別なもの、と思っているように思うし、僕自身かつてはそんなふうに思っていたかもしれません。それと、アスファルトで覆われた道と、住宅、マンションばかりが立ち並ぶ中では、自然と自分の関わりを、とても見いだしにくいということもあると思います。でもそんな環境であっても実際は、周りの環境、他の生き物たちと依存しあって、誰の体も心も、そこにあります。そこには、かつて生きていたけどもう生きてはいない、全ての存在の姿もあります。例えばそこにある野菜は、収穫したときか、茹でた時か刻んだ時に、もう花を咲かせたりすることはできなくなるけど、それを食べた人のエネルギーになったり、食べた人の体や心をつくります。僕らが食べた野菜は消滅するわけではなく、違う形となって、続いていきます。そういう命の積み重ねが野菜も人も作っているし、僕らもいずれ、また違う形となって、続いていきます。田畑はそういうことを具体的に見せてくれます。僕らは自然の「現れ」の一つ。野菜やお米や、草や虫たちも、ここにあるパソコンですら、全ての自然の中の、「現れ」の一つ。この心も体も、今書いているこの文章も、他の全てのものと関わり合ってここにあります。  健